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後記

本書は、二〇二一年一二月にはじまり一年を要した伊藤苔石氏のフェイスブックを纏めておきたいと考えたものである。
これは嘗て一緒に活動した者の役目かと思ったからだ。
NPO法人を立ち上げる前、中国旅行中上海の空港で乗り継ぐ飛行機を待っていた時、宇佐美氏はこんな事を遣りたいと熱く語られた。私のような者にも そんな事を言って頂いたことは思いがけない事だった。微々たる協力しか出来ない事は承知であったが勉強したいと思ったことを思い出す。
それから一年程も掛かったかと思うが、遠く栃木、金沢の人が中心に各方面から京都へ月一回集まり何も知らない私も二人一組になり担当の漢字を調べた。秋田の人と組みファックスで打ち合わせ集まりに持参した。
その裏では大変な準備をされた宇佐美氏が居られたからこそ立ち上げることが出来たのは言うまでもない。
京都で第一回目の講習会が開催され細やかなお手伝いをさせて頂いた。人前で喋る事など無理だと思っていたのに 福井や京都での講習会、愛知での愛・地球博も担当出来たのは、大袈裟かもしれないけれど我が人生にとって有意義な事だった。     爽雨



# by souu-y | 2023-01-26 16:41 | 雑記

口(サイ)について2

「歌」

神様に何か願いごとをする時、それでも神はなかなかお聞きくださらない。そこで少し脅してみせる。それが「可」。

しかし、それでも神は聞き入れてくれない。

そこでどうするか?

複数の祝詞を複数の人で唱える。それが「哥」。

一斉に祝詞を唱和する。そこに少しずつズレが生じる。

それにより、あるリズムのようなものが生まれ、そうしてできた文字が「謌」。

今の字でいうと、さて何か?

 もう一度漢字クイズを見よう。

口(サイ)について2_e0131814_17013885.jpg

答えは、「可」を含む字である。

人が大きな口を開けている。

「歌」字の中、口耳の「口い(くち)」はいくつあるだろうか?

答えは一つ。

「くち」は右側の旁の上部にある。

歌を歌う時、口(くち)」は一つである。

もし、多くの人で歌うなら「唱」。「日」が二つ、「おおい・さかん」等。其より合唱の意味が生じる。

歌唱力とは、既に競い会う事を前提としているかもしれない。

神に祈り願う時、一生懸命訴えるように声を出し祈ったのだろう。

多くの人、皆で迫る時、その声はリズムを生み、声の調子に変化が生じる。其が「うたう・うた」となったのだ。

歌は強く迫るような歌いかただったのだろう。

「歌う」という行為は、もと祝詞等の事から発し、本来呪的行為であったと白川先生は述べている。

国語においても、「うた」は「拍つ」「訴つ」等と語源を同じくして、外に激しく表現される意味として、その呪詛的性格が漢字と同じとされる。

 このように漢字の意味と我が国の「国語」は対応する関係の語が多く、それ故外国の言葉である漢字を、日本は受け入れ、自分たちのものとして「国語」として用いているのだ。

この事は、とても凄い事なのである。

よく「国語」の名称を「日本語」に変更すべきという意見を聞く。

しかし白川先生は、「国語」という名や語に尊厳を以て発信されていた。

私達は、その意味をよく考えないといけない。

歌は、もと言霊を以て呪能を発揮するもので、本来呪詛・哀告をなすものであった。

のち歌楽・謳歌の意味に用いられ、現在のカラオケ等「楽しむ」ものとなった。

何か困った時、或いは是非とも実現して欲しい事があっても人知では何ともし難いものがある。

そんな場合、当然神に訴え・祈るしか方法がなかったのだろう。

そういった中で「歌」は生まれてきたのだ。

歌謡とは、本来神に訴え・祈る。それに応えた神意を含むものであった。

そしてまた、東アジアの重要な風習の「歌垣」は、神と精霊との間に、そのような呪歌をやりとりするのが起源だったようだ。

さて「歌」の起源は?

概ね吉凶の事に際し、神に祈り歌舞する礼に発するものであったと白川先生は述べている。

宇佐美公有氏は高野山の僧侶であった。高野山の僧侶、その出身者はやはり「いろは歌」を歌われるのだろうか?

以前日本文字文化機構の学術探訪で高野山に行く機会があった。

宇佐美氏に連れていって頂いた善き思い出である。

そこで金剛峯寺(正しくは、「こんごうぶうじ」)で、僧侶に「いろは歌」を披露して頂いた。その歌は今でも忘れられない。

開祖弘法大師が歌う「いろは歌」は一体どんなものだったのか?

高野山の山々によく響き渡ったであろう。文字と声とリズム、まさに言霊の世界。


「吉」

「吉」と言うと何を思い浮かべるだろうか?

多くの人が神社等でのおみくじ。大吉・中吉・・吉・・凶等がお馴染みだろう。

若いカップルの中でも、各地のパワースポットとして神社・寺等も人気が有るようだ。

しかし、そもそもパワースポットとされる所とは、本来禁忌の地だったはずである。

私は、このような流行には、背を向けるへそ曲がりなので、いそいそと出掛けられないのは因果な事だ。

「吉」字に戻ろう。ズバリ「吉」の意味は、「詰(キツ・つめる)」が原義だったと考えられる。

では、「詰」とはどういう成り立ちだったのだろうか?

「吉」の展開より、「詰(キツ・つめる)」の声符は吉。

神への祈りの文を収める器である「口(サイ)」の上に、神聖な器物である「士」。「士」は鉞(まさかり)の刃を置き、祈りの効果である呪能を、その器に閉じ守る事。

つまり、呪能の保全を求める意味が「吉」にある。

そして、同時に保全をしっかりと機能させるように神に対して責め求める事、それを「とう・せめる」と

言い、言偏を加えて「詰」となる。

しかし、その責め求めるのは、本来「良い結果が得られますように」と神に対して導くものであったはずだ。

それが今は全く逆の意味として用いられている。

「詰問」とは、問い詰める・問い責める事。しかし本来は、前回に述べたように神に対して「問う(とう)」ものだった。

しかし現在、この「詰」の訓に「なじる」がある。

それにより、相手をなじるという用法に用いられた。

字源とは全く逆の意味となってしまった。

[字訓]なじる「詰」には、非難し詰問する。その理由を問い責める事をいう。

また、「なぜる」とも言い、「なぜ」を動詞化した語とある。

しかし、一方で「詰」には「いましめる」「をさめる」意味もあり、古くより混乱してしまったかもしれない。

神に対して「とう」事が、目下や罪人に対して用いられた事で意味が逆転してしまったのだろうか。

「詰(キツ・つめる)」意味とは、「口(サイ)」を通じ祈りの効果が聖器である鉞によって守られた祝詞に、呪能の保全とともに、その呪力が詰まっている状態であり、充実したものの意味がある。

そして、それによって祈り・願いが「かなう」事となり、それが「大吉・吉、吉慶等」となる。

また吉(キツ)・乞(キツ)・兀(コツ)声には勇健の意味が有り、それを人に移した字が佶(キツ・いかめしい・ただしい)となる。

「吉」一文字だけでなく、人名に「吉」を用いる理由、実はここにあるのではないだろうか。

「吉」に関連する字を通して正しく理解する事が必要だろう。その認識が現在不足している。

『笑点』より。

大分県の収録だった。大喜利のご挨拶で、林家たい平さんが大分県の「分」を「いた」と読むことの出自を説明した。

たい平さん曰く、分は古く「きだ」と言い、「きだ」から「きた」となり、それが「いた」となったと。

誰もが疑問に思った事をよくぞ言ってくれたと感じた。

冒頭のご挨拶だから、詳しい説明はできない。

ここに捕捉しよう。

『豊後風土記大分郡』に 「・・・この郡(くに)は碩田(おおきだ)の国と名付くべしとのりたまひき、今大分(おおきだ)と謂う」とある。

古くは「碩田(おおきだ)

それを「大分」と表記するようになり、「おおきだ」から「おおきた」そしてkitaからk音が欠落し「おおいた」となった。

また「分」の訓読みに、学校では学ばないが、『字訓』にも「きだ」[分・段]が有り、布帛や田畑を数える時の数助詞に用いられる。

ただし、「分」一文字だけでは「いた」とは読めない。

この事は学校でどのように理解しているのだろうか?

「吾

「吾」の字は、何も抵抗なく説明する事は注意しなければならない。

それは大人ならば、その字が人名に用いられ認知する事ができるが、子ども達はどうだろうか?

「吾」は常用漢字ではなく、人名漢字なのだ。

しかし、その字を親字とする「語」「悟」は教育漢字であり、常用漢字なのだ。

したがって、普段私達が漢字を理解していると思っている事は、単に字の「よみ・かき」だけの事にすぎない。

 実に心もとない理解度である事を自覚し「悟」らなければならない

「吾」の字には、漢数字の「五」がある。これは一体何を表すのか?単に声符だけの意味なのだろうか?

否、「五」は形と意味も伴う。この事をよく理解する必要がある。

「五」は、もとは箱のような器物を守る蓋として、木()を交差し、中央部分で縛った形だ。時により頑丈にする為二重にした形もあった。

では蓋として守る、その対象は何だったのか?

 それが「口(サイ)」。神への祈りの文を収める器だった。「吾」の字には、このようなドラマが潜んでいる。

 のちに、これが身蓋の関係となるのである

「吾」は、神への祈りの文である祝詞の呪能を守る為に「口(サイ)」の上に丈夫な木を交差させた蓋をした形だ。

同時に、この交差した形は、アルファベットの「×」に似ているが、漢字でいえば×(バツ・ペケ)の形。

この×(バツ)には、禍事()と同時に邪霊を防ぐ意味があったと考えるべきだろう。

日本においても、それは標木であったのだ。たかが木の枝ではないという事が共有された。

のちに、この「吾」は一人称代名詞「われ」の意味に用いられ、本来の意味には、「吾」に攴が加わった字が作られた。

「吾」に何故「攴(ボク・うつ・たたく)」を加えて「守る」意味なのだろうか?

もしも「口(サイ)」を殴つ為に「攴」を加えるならば、それは祝詞の呪能を破るという攻撃的な意味となる。

「守る」意味ではなく、不自然である。

では一体どういうことだろうか?

攴」を加えるのは大きく二つの理由が考えられる。

1,呪能の活性化の為に刺激を与える

2.呪能を害するものに対して、殴ちたたく

 さて、どうだろうか?

「吾」の展開字に「悟(ゴ・さとる)」がある。

「口(サイ)」である祝詞の効果が守られる事で、始めて神のお告げを「みる(識る)」と考えられたのではないだろうか。

そして、そのお告げによって心の迷いを退け、心の明るさを「まもる」事、それによって「覚悟」が生じるとされたのではないだろうか。

この事からも、前回の答えは

呪能を活性化させることと考える方がよいのではないだろうか。

 もう一つ「吾」の展開字「語」について。

「言語」とは、本来何か?

それは共に神への祈りの言葉として、「言」がいわゆる自己詛盟。神に対して嘘・偽りがあれば、刑罰を受けるというもの。

 古代、言葉を表す事とは全て霊との交渉を意味するものだった。従って「言」は、時に神に対しても攻撃的な意味を持ち、一方「語」は防御的な意味を持つと白川先生は述べられた。

それは✕型の木の枝が「口(サイ)」を守る事から生じるものだ。

「言語」とは、このようにただの言葉ではなかった。

古代世界では、簡単に「嘘・偽り」が罷り通った訳ではなかったのだろう

 中国最古の詩『詩経・大雅・公劉』に古代の都作りを歌うものがある。

それは「時に言言し、時に語語す」という有名な句だ。

これは都定めをする時、そこの土地の神・地霊に、都作りの事を言い聞かせる儀礼「ものいふ」を表したとされている。

また、これを戦いの場面で行う事もある。いわゆる「口合戦」。

これは呑気な事ではなく、古く言霊的呪儀が存在したことを表すものだった。

我が国でも「やぁやぁ我こそは・・・」で始まる口合戦もその一つ。

戦いの前の習わしによって、神々の戦いが始まっていたのだ。

この「新しい文字学習法」はこれで終了。


# by souu-y | 2023-01-26 16:30 | 雑記

「口(サイ)」について 

 さぁ、いよいよ「口(サイ)」である。

大かたの人には馴染みのない言葉だろう。

それは、いわゆる学び・教育における革命を意味する。革命というと少し引いてしまうが、実は武力闘争とは全く無関係だ。

現代の知の巨人と言われる松岡正剛さんは、概念の三悪として「空間・時間・人間(じんかん)」を挙げている。

そして、この三つの概念にとらわれている人に限って教育と宗教と芸術を語りたがると。

否、それを生業にしている立場に限ってと置き換えても良いと私は思う。

教育は革命論、宗教は直感論、芸術は物質論に鎮魂してから記述せよ。松岡氏の卓見である。

白川先生の「口(サイ)」の発見は、まさに革命を予感される。

そして、それを学びの現場に反映させるには、それを実践させることが求められた。

宇佐美公有氏は、それに命をかけた

 前述した概念の三悪の立場からすると、「教育は歴史に」「宗教は認識に」「芸術は表現に」すり替えられたと松岡氏は述べる。

 漢字は『説文解字』という「歴史」から脱却できない現状に対して、漢字に携わる立場の者及び教育関係者は恥じるべきであると私は思う。

しかし現状は恥じるどころか既得権を守る為、歴史論に固執する。

またそれを正しく検証する学問も人も育てていない。

そんな中、白川先生によって漢字学・東洋の文化に革命が起こった。

先ず、この事を認識ではなく、直感的に受け止めて頂ければ幸いである。

では「口(サイ)」の物語へ。

クイズの絵のいづれを見ても人の「口(くち)」ではない。

 その形は

1 何か箱か器の形

2 小枝のようなものにくくりつけた形

 従来の漢和辞典では、その形は「口(くち)」と解されてきた。

「くち」は器官として、ものを食べたり、飲んだり。或いは声を出して話したり歌ったりするものだ。しかし、それならば不思議だ。食べたり飲んだりでも「食」「飲」の中には「口」の形は見当たらない。

後の時代に新しく口偏で作られた形声文字の幾つかを除いて、「口」の形で口耳の「くち」の意味に用いた文字は、一つもないという。

それは、今の漢字の内、その系列の文字も含めれば、全体の一割を占めるという。

白川学は、何も「口(サイ)」だけを殊更強調するものではない。しかし、それにしても、この一割は大きい。

つまり「口(サイ)」系列の解釈は、全て誤っていたということである。

大きくの反白川系列の学者さんは、そんなこ難しい事なんか、「口」は素直に「くち」にしとけば良い。と今でも嘯いておられるだろうが・・・

私達もつい「くち」と口を滑らしてしまいがち。完全に洗脳?

陶芸家の皆さん「器」は全て「口(くち)」が4つは不自然でしょ!

「言」

「言(ゲン・いう・ことば)」について。「言」にはちゃんと「口(くち)」があるではないか。と従来の漢和辞典編者等は述べる。それらの辞書には

1 「口(くち)」と音を表す上部のケン声で、思っている事を「くち」にする形声文字

2 辛(切れ目をつける刃物)と「口(くち)で、口をふさいでもぐもぐ言う事を「音・諳(アン)」と言い、はっきり角目をつけて発音するを「言」という。会意文字。

少なくとも2は、「音」とつなげたい意図が見える。

これ等を含め、いづれも口を「くち」と解されているが、「言」という基本的な文字で有りながら、辞書によって会意か形声かすら一致していない。

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 それ以前は、「漢字クイズ」の中にも見え、この写真にも、或いは一般の漢和辞典でも指摘するように「辛(シン)」が上部にある。

では何故下部が「口(くち)」だとするならば、上部に辛が必要な理由は何か? 

漢和辞典の説明は、下部を「くち」と説明したいが為、大変苦しい解説である。直感的に不自然だと思う。

「口(サイ)」について _e0131814_17013882.jpg

「言(いう)」の正体は何か?誰が誰に対して何を「言う」のだろうか?

「言う」というのは、普通に誰かに話をする事だったのか?勿論現在ではそうであるが。

しかし、事は漢字が生まれた古代3300年前の神聖王朝であったのだ。

現在、その環境を当てるならば、一つに残念だが自然災害に遭遇してしまった事をイメージしてほしい。

古代では人知では何ともできない災害・禍も天の神様の怒りがもたらしたと考えられた。

つまり神様・祖先霊は、時に大変恐ろしいものであったのだ。

「言」「語」とは、共に人に対するもの・事ではなく、そのような神々に対するものだったと考えなければならない。

古代、人々はそれだけ自然・祖先霊に対して謙虚だったのだろう

「言」は会意文字。上部は辛(シン・はり)。その辛は刑罰として入れ墨の刑を受ける時に用いる針だった。

この場合盟誓と言って神に宣誓する。もし違約(嘘・偽り)のときには入れ墨の刑罰を受けると。

下部は口耳の「くち」ではなく、神への祈りの言葉を収める器の形。であると白川先生によって発見された。(それ以前にも、その提唱者はいた。しかし『説文』を覆されなかった)

つまり「言」とは祝詞の上に辛を置き、神に誓う神聖なることばを表した。

従って単に「言う」という軽いものではなかった。

「言う」とは、そのように神聖なることば。従って、もし其れが嘘・偽りであったならば入れ墨の刑罰を受ける。

其れが後の時代「針」の意味が残り、「嘘ついたら針千本飲ます」のフレーズになったのだろう。

「言語」と言うが、「言」はまた神に誓って、時に他に呪詛という「呪いのことば」を加える、いわゆる攻撃的言葉となる。

一方「語」は、祝詞の器の上に ×(五の元の形)の蓋を加え、祝詞の効果守る防御的な言葉と白川先生は述べている。

つまり、もともと「言語」とは神に誓い行われる祭祀儀礼での定型文だったのだろう。

残念ながら古代においても当然の如く紛争や戦争はあった。

その後処理、休戦等の際には、お互いにおいて重要な決定事項がなされる。

その時、それぞれの神に対し誓う「盟誓」が必ず行われたと考えられる。それは何故か?

その手続きをしなければ、神が怒り、どのような禍が降りかかるとする考え方が古代、互いの共通認識だったのだろう。

それは日本でも、中世頃迄は確実にあった。

例えば源平合戦。平家は古代からの風習・しきたり・礼等に添って戦う。しかし源義経は?勝利至上主義。勝つには勝ったが、その後義経はどうなるか?

 

「告(コク・つげる)の歴史、『説文』「牛、人に触れる。角に横木を箸く。人に告ぐる所以なり」

牛が人に何か訴えようとする時、横木をつけた口(くち)」をすりよせてくると解した。

さすが、この説は無理があると考えたのか、通常な日本の漢和辞典では以下の説明をする。

1「牛と口(ワク)」、梏(コク・しばったかせ)の原字

 これを上位に告げる意味にもちいるは、「号や叫」と同系の言葉に当てた仮借

2 口(くち)と「進み出る形。牛は単にその形で進言する。ひいて「告げる」意味。

全く意味が分からない。単に意味である「つげる」に持ってくる、持ってきたいだけの気がする。

「告」の上部は牛の形ではなく、木の枝と説明した。その小枝を「口(サイ)」という祈りのことばを収める器に加え、神前に掲げ、神に告げ祈る事から「つげる・いのる」というのだ。

もしそれを分かりやすく現代にあてるならば、神社等に参拝して玉ぐしを捧げるイメージをしてみよう。その玉ぐし・或いは榊が「告」の上部と考えれば宜い。

では、その木の枝に何の意味があるのだろうか?まさに、ここに神がよりつくとされたのである。

神は尖ったもの、ギザギザのものによく反応したようで「菱形」も同じだと考えられる。

若い男女が互いに告白する事を「告(コク)る」と言うようだが、「告」とは本来、に告げ訴えることを言った。

対して上より下に告げることは、告に言偏をつけた字だった。それは王の命令等に用いている。

また神前で祝詞として奏上されるものをご祈願と言うが、これも広い意味で「告」だろう。

また「名のり」と言う。大相撲の呼び出し・行事軍配における勝ち力士に対しても「名のり(勝ち名のり)」だ。

本来このように「告」とは、神聖なものであった。

では、この「告」、どのようなことが本来、この字が作られていく基・背景になったものだったのか?

古代神聖国家において、その全てが神によって物事が決定されると信じられていた。否、そうすることで体制が維持されたと言い代えても良いかもしれない。

その時、神と人との交流の仲介するものが「口(サイ)」だったのである。

そのような王朝にとって危急の際、神の佑助を求める事が大事であったと思われる。

 現在白川先生の後継者の一人、立命館大学での教え子T氏は、「そのような佑助を求める為に行う祭祀が告であった」と述べている。

子ども達の疑問

何故「史」の下部は交差するの?

この難題にはてさて答えられる大人がどのくらいいるのだろうか?

夏休み「漢字」の宿題に大学生や地域の大人が支援する試みが、私の住む地域でも有ったが、恐らく質問には答えられない。こんな事は、例えば算数ではあり得ない筈だ。

例えば、検査の「検」の旁の下部は交差していない。

交差するのとしないのでは、何か意味が違うのだろうか?

学校の書き取りでは、どのように教えているのだろうか?

予想されるのは、各先生によってばらつきがある。それに対して子ども達は当然不満。しかし、それについては何の解決策もないまま、しょうがないで済ませてしまった。子どもの頃不満だった記憶も大人になり、教師になったら同じ過ちを続けている。それが現状ではないだろうか。

じゃあ指摘してあげれば?

はい。もう10年以上している。しかし現場の若い先生はともかく、管理職と行政が聞く耳持たずだ。

残念ながら、事の意味が理解できていないのである。

一般の漢和辞典での「史」は、どのように解説しているのだろうか?

おおよそ「数を数える棒()と手とで、天体の運行を計算して暦をつくる人。転じて記録を司る人、またその記録の意味」とする辞書が多く見られる。

「転じて・・・」の記述が多く見られるのが特徴だが、この転じては無理に「ふみ・かきもの」の意味にもっていこうとする意図が感じられる。

「転じて」は怪しいと思った方が良いと思う。

「史」の字体は、「中」の形が何か?という事が一つ問題だ。

漢字は、例え難しくとも、面倒でも一つ一つ解いていく地道な事が大切なのだ。

このときの「中」は、大中小の「中」とは別のものだったのだ。

「史」は、本来神巫と並び、王の側近で身分高き地位だった。

しかし、のち政治機構が分化し、「史」は宮中の祭司を司る、いわゆる巫史と呼ばれる地位に下って行った。

古代の聖職者としての地位が失なわれるとともに、下級の祭祀執行者として下属の身分となる。

しかし、周代中期以降「作冊」という王の近侍として、再び官僚として表舞台に現れてくる。

恐らく殷系の人々が、周王朝に溶け込んだ事も関係するのではないだろうか。

「事」という字もよくよく考えると難しい。

いろんな語に「事」が使われる。「事件・事故・事実・事情・真実・工事・・・」等。

要は「こと」なんだが、またそれを説明する事が難しいようだ。

従来の一般的漢和辞典は、どう説明しているのか?

1 旺文社

 史(竹の棒を手に持つ役人)と旗竿とで

 もと公事を示す旗をおし立てる意味

2 漢字源

 竹棒を筒の中に立てるさま。

 原義は「たてる・たつ」

ともに竹棒と「たてる」意味と有るが、尚不明な点が多く、辞書としての機能を果たしてはいない

「史」も「事」も祭事・祭祀をいう字だった。

「史」は、王朝内において、祖先霊を祀る宗廟で祭事を行う、いわゆる内祭をいう。

一方「事」は、王朝の支配が拡大するに従い、王朝が周辺の異民族・外族に対し政治的支配を含めて行う祭事。いわゆる外祭をいう。

 従って、[旺文社]の記述。「竹の棒と旗竿」の曖昧さを整理すると、「史」は木の棒に「口(サイ)」を結び着けたものを手に持って神に捧げる事。

一方「事」は、遠く離れた所からも分かる大きな旗竿で、上部がY字形で目立つ形。と区別する

大きな旗竿で、さらに吹き流しを加える事で、遠くからも目立つ必要があったのは、本来王室から王の遣いとして出向する祭祀官()が、何れの地に赴き、王の代理として執行する祭祀である事を道中の人々にも知らしめる必要があったからではないだろうか。

諸族において、殷王朝の祭祀を行う事が、王朝に対し政治的支配に服する事を意味した。

このような国家的大事を「王事・大事」と言った。

それが古代における一つの支配形態だったようだ。

甲骨文には「王事を載(おこな)はんか」と卜する例が多く見られる。

古代殷王朝の祭祀を外族が行うかどうかという、いわば踏み絵を踏ました事をも表したのだろう。

従って「事」とは、その辺りに起こる出来事ではなく、外族・異民族等に対する国家的大事をいうものだった。

そして、そのような大事を損なう事が「事故」だったのだ。

以上の事からも「史」と「事」の類似性がご理解され、同時に本来の意味に驚きを覚えられたのではないだろうか?

「王事」は、のち本来の祭祀。王使が出向して行う祭政的な支配の意味が失われ、王朝に対する政治的・経済的な義務という語になっていった。

祭政から政治へ。宗教的支配から権力的支配への歴史の展開と語義の展開がつながってくると白川先生は述べている。

このような古い義(意味)を理解しないと、要領の得ない漢和辞典の説明となるのである。

同時に、その形義から「史・事・使・吏」が一系である事を理解する必要がある。

「舎」の旧字体は「舍」。上部の形が、下部の「口」に接している。

この僅かな違いが実は重要だった。

旧字体と新字体、両方とも画数は同じだ。何故変える必要があったのか?

穿った見方をすれば、漢字は中国から伝わった。だから中国伝統的解釈を踏まえなければならない。

『説文』「市居を舍といふ」は、舎止・止宿。

この意味に合わせようとしたのか、屋根の下に「土」で、土地の意味としたのか?

筆の筆写の崩し方では合理性が優先されるため、字義と合わない事があったのは承知している。

しかし、それと標準字体表記とは別の問題である。全く愚かな改竄だった。

上部の形は、建物の屋根でも、スコップの形でもなく、取っ手の有る針の形だった

「口(くち)」だと考えていた、そのほとんどは器官としての「くち」ではなく、何か箱・器の形をしたものだった。

クイズの中で三つ器が有る事が確認できるだろう。

しかも、その上部には何か取っ手の付いた針のようなものを加える形が二つ、よく似た字形が確認できる。

そのうち一つは、針を立たせて置くように見える。

もう一つは、箱に針を刺して蓋が壊されているようである。

この内針が置いて有るのが「言」。

蓋が壊されているのが「舎」だった

「舎」は、今まで建物の意味ではなかった事を説明してきた。

もう少し具体的に解説しよう。

旧字体「舍」が正しい字形。上部は「余」に似た形で、取っ手の有る針の形。それが祝詞を収める箱・器である「口(サイ)」を上から突き刺す。これにより、器の中の呪能は、その効果を失う。

それでは呪力の役割とはならないから、「捨てる・捨てられる」。

「舎()」は「捨」の初文だった。

 これにより「舎」「捨」は一系の字である事が理解できる。

さて、他の漢和辞典では「捨」をどう解釈しているのだろうか

旺文社の漢和辞典での「捨」の解釈。舎に手を加え「捨てる」

学研系列手と音符「舎」で、手の内力をぬいて指を伸ばし放すこと。「取」の反対語。

とある。

しかし、これ等には、何故「捨てる」のか?全く説明がなく、説得力のない事がお分かりだろう。

漢字の意味は、もっと切実な思いが有り、またその字形には、それを裏付ける意味が確実に存在する。

それを紐解く事が、漢字が分かる事なのだ。

「舎」と「舍」は、よく似ている。しかし、針が「口(サイ)」に届くか届いていないのか?

届いていなければ、器を損なう事はないのである。

当たり前の事が当たり前でない解説を、いつまで子ども達にするのだろうか?

日本では古く「舎人(とねり)」という天皇・皇后の近侍に使える身分の者がいた。

何故「舎」の字がつくのか?

天皇・皇后からの命(めい)を与えられる。それが「命を舍()く」だった。

「舎」の字形解説と日本古代の身分・職能がつながっている事がお分かりになっただろうか。

祝詞の器「口(サイ)」は、それを介する呪能の効果が、王朝の存亡に関わる重要なものだった。

王朝にとって死守すべきは、異民族からの呪力を阻止するものだった。

互いに呪術を駆使することが古代の社会だったのだ。

それについては、後日他の文字でも説明したい

「害」とは祝詞の器を大きな針で突き刺し、器中の祝詞の呪能の力を喪失させ、祈りの効果を失わさせる。

それによって「そこなう」意味が生じ、呪能の効果を失なった敵方に「禍」が生じるとされた。

祝詞を害される事は、すなわち神の保護が受けられなく、それによって禍を招く事になる。

祝詞・呪文、それ自体言霊的呪能を持つものだった。従って、これを成就させるには、当然これをしっかりと守護する必要があった。

一方、敵方からみれば、それは自分達に対して害を招くもの。互いに敵方の呪能に対しては、それを妨げ、捨て去る事が必要だった。

その事を文字として形象化したのが「漢字」である。

呪能を守る字である「吉・古・吾・咸」等に対して、妨げる字が「害・舎()」だった。

古代社会では互いに呪術合戦が繰り広げられる世界であった。

日本も同じだった事を理解する必要がある。

「捨()」のところでも述べたが、「害」の字形も実はおかしい。

旧字体は、やはり中の縦棒が「口(サイ)」に届くように突き出ている形だ。

新字体は、全く届かず、例えば「青」の上部と同じ字形にしてしまった。勿論「青」の上部は「生」の省略形で、意味は全く違うものである。

このように新字体は、形に意味が伴うという事を理解せず、同じような字形は同形にするとしてしまったのだ。

「害」と同様なものが、憲法の「憲」

「憲法」とは何か?

「害」の関連字を一つ。「害」に「刀」を加えた「割(カツ・カイ・わる・さく・そこなう)

現在「割」はカツ声だが、この字は古くガイ声であったようだ。

祝詞の器「口(サイ)」を大きな針で突き刺し、祈りの効果を失なった、その器をさらに「刀」で割裂する。その時の音が「ガツ」だったのだろう。

そういう意味では、カツ・ガツ声はオノマトペ・擬声語とも考えられる。

改めて漢字は、形・音・義(意味)の掛け合わせである事が確認できたのではないか

甲骨文字と現在の字はやはりつながっているが、絵からはそれがつながっていると理解する事が難しい。

一般的に「可」とは、どのような場合に用いられるのか。

可能・許可・・・或いは何年か前の大学の成績では「優・良・可」だった事を思いだす。

また「可」の書き順を皆さんどう書かれますか?

この字はよく間違えられるものの一つだ。

しかし安心して下さい。この字は本来の成り立ちと現在の書き順は無関係なのだ

改めて一般の漢和辞典の「可」についての解説を読んだ。

 

おおむね「形声」として、口(くち)と音を表す「巧の旁コウ」変わった形とカは変わった音でよい意味がある。

そして、それは嘉(カ・よい)と通じるとして、口(くち)でよいと言って許す意味とする。

しかし「可」字は既に甲骨文字に見られる。

意味として「口(くち)」でよいとわざわざ説明する必要も疑問だ。

「可」は形声ではなく、会意文字とするべきである。

また誰が、どのような場合にそれを述べるのか(一般の漢和辞典の口でよいという)。 それは古代社会で文字の存在の意味を理解せずに本当の理解はできないのだ

「べくべからべくべかりべしべきべけれ すずかけ並木来る鼓笛隊」

同郷の先輩で現代歌人永井陽子の代表作。

文法的には、助動詞「べし」の活用を巧みに取り入れた表現で、永井らしい「音」の手法を存分に発揮した歌である。

私は、漢字の「可」を考える時、その脳裏に必ず永井のこの歌が浮かんでくる。

漢字「可(カ・よし・ゆるす・べし)」。

「可」における書き順は、本来の成り立ちとは違って、横画を書いて口を書き、最後に縦画の撥ねとなる。「可」は「口(サイ)」と木の枝(柯・カ)に従う形。

その木の柯(えだ)は、横画と最終画の撥ねを含む縦画を合わせた形。従って、現在の「可」の書き順は、本来の字義とは異なる。

「口(サイ)」は神への祈りの言葉である祝詞を収める器の形。何故そこに木の柯が必要だったのか?

それは、神様に祈るが、神はなかなか言うことに応えてくれない。

それで少し神を脅すのだ。木の柯で、その祝詞を打ち刺激を与える。

「口(サイ)」は、その呪能を高める為には、刺激を必要とした。

神は祈りに対して、なかなか応えてくれない事を述べた。

それで、祈りが実現するように神に迫る。それが「~すべし」。これを呵責と言う。

強く訴えることに漸く神は応え、「わかった」として「よし」と許可する。

それが「ゆるす」である。

「可」は、また「呵」であり、「せめる・しかる」のもと字でもある。

面白いですね!

実際にそこで行われているような情景が浮かんでこないか?

漢字は、こうして生まれて、そして定着したのだろう


# by souu-y | 2023-01-26 16:25 | 雑記

顔と身体

しかし、それでも「音」「気配」を神の音連れ(訪れ)と感知する事ができたと、古代人は信じていたのだろう。

そこに神の声を「きく」耳が、重要となる。

神の姿は、肉眼には見えるものではなかった。ただその「音・音なひ」「気配」を聞く事ができた。その声を聞きうるものは、唯一神に「素直なるもの」に限られた。それが「聖」であったと白川先生は述べている。

「聖」に「耳」が現れた。

ただし、「口(くち)」はない。その形に見えるものは、「くち」ではなく、神への祈りのことばである祝詞を収める器であった。

「聖」の下部は、現在では王様の「王」の形であるが、旧字体では「人がつま先立つ形」であった。

姿なき神の声を聞こうとする形、此れが「きく」の初文「聽(聴の旧字体)」の偏全体。ここから「きく」が始まる

「きく」の漢字を尋ねれば、多くの人が「聞」と答えるだろう。

では「聞」の部首は何か?

答えは「耳」。

しかし、この「聞(ブン・モン)」字の解説は、とても難解である。

解できると思う。

 漢字「聞」の訓読みは、「きく・きこえる」とともに「ほまれ」がある。

古代文字金文には、酒爵を奉じる形が有り、これが「ほまれ」。

その形は、別に「問・婚・勲」等と通じるものであり、爵を上げて行う儀礼を表したものであった。

それが何故「きく」となる?

「聞」の初源「聽」の偏は、甲骨文では「きく・以聞(神の声を聞き、天子に奏上)」。

一方金文は「ほまれ」と別系だったと考えられる。

しかし、何故それが「きく」という意味に集約するようになったのか?

古代では馨香を最も純粋なものと考えられていたことがポイントのようだ。

つまり、酒香を以て神を招き、神に接する為に馨香を捧げる。それが神を招くに最善の方法だった。

では神がその馨香を感知する事とは?

それがまた「きく」事だったのだろう。

ここに感覚として「声」「臭」とともに「耳」が加わった。

そして、もう一つ「聞」に門構えを加えた理由に、ある別の字が関係する。

「きく」に門構えを加えた「聞」の字が用いられのは、白川先生によると戦国期以降とされる。

私は「問(モン・ブン・とう・たずねる・ほまれ)」と関連すると考えている。

声義において、二字は「モン・ブン・ほまれ」と通用する。

ただし、「問」の下部を「口(くち)」として、「問う」ことに対して「聞く」とするのは、あまりにも単純化しすぎと思う。

それでは「門」の意味が解けない。

「門」とは神戸棚。従って、神に問うものであり、これは祝詞「口(サイ)」を介していうものでなければならない。

大切な事は、「聞」という字形以前、古代文字に「きく」という「声・臭」を覚知する意味で用いられた

文字が「ほまれ」の意味で「問」と通じ、それにより門構えが加わり、「きく」が「聞」字に集約されたという事ではないだろうか。

いろは歌というものがある。「いろはにほへと・・」で有り、いろは47文字(一字一音・「ん」は後に追加し48字に)

実はこれ「色は匂へど 散りぬるを・・・」と文章になっている。

現在では、色はカラーの意味で、視覚的なもの。しかし「いろは歌」が出来たであろう平安時代は、色は匂うものだった。さらにそれ以前では、色香をも含め、色は「きく」ものだった。

日本の伝統文化香道は、香りを「聞・きく」ものである事は、本来の意味をふまえるものである。

人間の五感において、最も次元の高いものが、「きく」という感覚である事を、私達は理解しなければならない。

名作マンガ「鉄腕アトム」。そのアトムに備わった「七つの威力」がある。

その「七つの威力」の最初に挙げられるものが、聴力を千倍に切り替える「耳」なのだ。

遥か遠く、微かなSOSも聞き取り、助けに急行するアトム。手塚が最初に「耳」を挙げた意味は、とても興味深い。

新たなものを創作する。今ならイノベーションか?それには古典をふまえることが大切であり、必修である事を、私達は手塚から学ぶべきだと思う。

未来を創造する事は、いかに古典を学ぶか、それも古典の何を学ぶかが、とても大切であると、もうそろそろ気付かなければならない。

「耳」には器官としての他に、もう一つの意味がある。それは戦争における手柄の証拠品としての「耳」だった。

「耳」に、右手のもとの形「又」を加えた「取」がある。

戦場で討ち取った敵の左耳を切り取る事を言い、その切り取った耳の数で戦功を数えた。『周礼』「獲たる者は其の左耳を取る」とある。

敵の大将クラスには「首」を切り取る。首は重いので、機動力には不便である。

甲骨文の「耳」字を振り返ってみよう。「耳」の上部に切り取る事を示す斜線がある。

切り取った耳が多い場合、頭に被っていた頭巾を袋代わりにして集める字が「最」だ。そして、その中の耳を手でつまむ字が「撮」なのである。

「首」という字は、「首」を切り取った形を表した。

よく子ども達に「首」はどこ?と質問すると、喉を指すが、漢字における「首」とは、首から上の全てを表す。

従って、「目」の部分が顔(目は顔の一番主とするもので象徴的に)全体を、その上部は、髪の毛、それもいわゆる落ち武者のように、首を切られ残バラ髪となった状態を表した

敢えて避けるつもりはない。首のつく漢字の代表的文字は「道」だ。

よく反白川学の立場の方は、「白川学は何でも呪的と言って、怖がらせる学説だ」と嘯かれているようだ。

そしてご自分達は、より論理的だとして、「道」は形声文字であり、「しんにょう」と音を表す「首」で、長く延びる意味がある。それで「長く通じている道」と説明している。

疑問だ。何故「首」だけで、長く延びる意味があるのか?怪談のろくろく首を持ち出すのだろうか?

さらに、根本的な誤り、文字の構造が間違いである。「首」「道」には古代文字が有り、用例もある。

文字の構造は「しんにょう」と「首」の会意文字。さらに、そこに右手である「又」を加えた「導」がある。

「道」には、首を手に持って行く(進む)「導」の形義も含まれる。

「首」は、首から上を表した。そして「しんにょう」を加え、さらに「又」を加えれば、首を手に持って進む意味となる。

ご指摘の通り、大変呪的で怖い意味ではある。しかし、何故このような恐ろしい意味の文字なのだろうか?

さらに、これより「導(ドウ・みちびく)」がどうして生まれてくるのか?

そこが大切だ。

つまり、古代の呪的世界、守られた土地から、一歩外に赴き、他の異民族の霊が潜む土地に入るならば、どんな禍をもたらすか。大いなる身の危険を感じた事だろう。

そこで、そのような邪霊に対抗する呪力には、怨みを持った異民族の「首」がふさわしいと考えたのだろう。

その「首」の呪力で邪霊を祓い清めて進む事が、後ろ・或いは後々の人々を「導く」事で有り、その清められたところが、「道」だったのだろう。

「道」を入れた人名人より一歩先に進む事は、危険や障害もある。しかし貴方は、それを乗り越えるだけの能力を持っている。それをしっかり育む事を願って名付けられた」等とする。

大切な事は、なまじ流行だけで、白川学をかじり、分かったつもりになって、白川学は怖いとか、逆に白川学を吹聴し、揚げ足をとられる事のないように、くれぐれもご注意頂きたい。


「県」

首を倒にした字形がある。それは何だろう?

答えは「県(ケン・かける・くに)」。

正確には都道府県の「県」は、もと「縣」で有り、「県」はキョウ声の象形文字だった。

では字形の説明をしましよう。

「首」は、やはり首から上を切られた形。その首を倒に木に紐等で懸けた形が「縣」。それで「系」が加わった。

首を倒にするから、髪の毛は下に垂れる。それが県の下部である。

「つるし首・さらし首」の一種で、大変強い呪霊を持つと恐れられたものだ。

それを異民族との境界に吊り下げた。相手から見れば気味が悪い。互いに境界侵入を防ぐ知恵だったのだろう

前回「縣」を異民族との境界に吊り下げた字であると説明した。つまりそこが県境となるのだ。そして其処より内側が県内、安全な地域である。

そうして生まれた「縣」が後世、郡県の意味に用いられた為、木に「かける」意味には、「縣」に「心」を加えた「懸」が作られた。

木にかけるが、気にかけるに転化した。

まさにコマーシャルのこの木何の木気になる木・・・」だ。

「首・縣()・懸」は、このように一連の系列の文字なのである。

漢字は、このように体系的に学ぶ必要がある

一般の漢和辞典での「道」の解説では、古代文字の存在を知っているにもかかわらず、敢えて白川学を無視して、形声文字として展開義である「長く延びる」意味でお茶を濁している。

 しかし此れは、彼らが信じる中国伝統の『説文』の解釈とも異なり、決して正しい解釈とは言えない。

 一方、白川学の呪的解釈を否定しながら、「県」の解説では

1 「首を木に倒に懸けた形」として古代文字を紹介

2 「首を木に倒につるした形」と「系」で、「処刑して首を木に懸けた形」                     篆書より

 等としている。

「県」と「道」と対比したとき、「首」に対しての一貫性のない姿勢と感じられる。

これが、現在の一般の漢和辞典である。

「顔を中心に」という分類の中に「心」を加えたことに違和感がある事は承知している。本来は「胸・心・骨・肉」等の分類の方が良いのだろう。

しかし、もしそこに他の意図があるとしたら?

一つ問題がある。「心」字は、いつ生じたのだろうか?

現在確認できるものとしては、西周金文からで、最古の漢字である甲骨文には確認できない。

 しかし、ここが大切。甲骨文の「文」字の中に、Ⅴ・×とともに「心」字とされる符号が存在する。

いったいそれはどうゆう事なのだろうか

「心」と「心臓」は同じか否か?また、その区別は古代にもあったのか?謎はまだまだ多く存在する。

甲骨文「文」の中に、確かに「心」は心臓の形で表されている。しかし、それは今で言う「心」字を意識したものではなく、当時既に外科的認識が有り、心臓という臓器・またその形を理解していたと考える。

「文」とは文身。それは死者への呪的装飾を描いたもの。

正面から見た人の胸部を大きくとり、そこに朱で文身(一時的な入れ墨)を加え、聖化した。その文身の記号を聖記号という。

死者への文身に心臓の形を記号化して加えたことに、大きな意味があった

金文の心字の形も「心臓」で表されている。つまり甲骨文の「文」で表された聖記号が、そのまま文字となったのである。

既に、この時代外科的認識が有り、心臓が生命の根源であるとともに、思考する場所であると考えられていた為、「心情・気持ち」の意味等に展開していった。

現在の医学において、「脳」の思考と「心」との関係は変化してきているかもしれないが・・・

「文」が胸とともに「産・彦」等も旧字体は「文」に従うことから、「心」を「顔を中心に」の分類に敢えて加えたとする意図もある。

心は日本語で「こころ」と読むことは、誰もが理解している。では何故「こころ」と読むのか?

そんな事は知らないとお叱りを受けそうだが。

もう一つ、国語では「うら」とも読む。

「裏」と「心」は同根で、表面(面もおもて)を「うへ()」と言うのに対し、表面に表れないものを「うら」と言った。

「心」の漢字は心臓の形。心臓は強い筋肉によって凝り固まった形をしている。(心と凝りが通じた)

その凝り固まった形が字形で表したのが「心」の始めの形。

その後変化し続け、現在の「心」字は心臓とは全く想像できないものとなったのである。

「見」は象形、「兄・光」は会意。「人」の形が下部にある同じ構造でありながら、何故象形と会意の違いがあるのか?

また、その区別は何か?

懐かしい。当時大真面目に考え、悩んだものだ。こうした疑問、「何故だろう・不思議だな・調べてみよう」という興味が、漢字学習を教える側は必要なのだ。是非とも小学校の先生方にも、このような視点で漢字に接して頂きたい。

既存の辞書を鵜呑みにせず、自分でじっくり考えていただきたい。

先の答えは、自らの身体全体と身体とは別の何かを加えた場合、象形と会意の区別がある。

「見」字の上部の異常に大きく描かれた「目」は、その人自身の「目」だ。

下部は「人」を表す。つまり「見」は、自らの「目」を強調して表したものである。

しかし、何故そのように「目」を強調しなければならなかったのか?

それは、「見る」という行為に秘密がある。

当たり前のものが「見える・見た」等で漢字は作られない。

隠れたる神の姿を見ようとする。「見る」事自体が、その対象と内面的交渉を持つという意味の呪的行為であると白川先生は述べている。

このような視点により初めて漢字は理解できる。

のち、「見」が単に「みる」意味に用いられた為、元の意味には「示」を加えた「視」が作られた。

血気盛んな年頃、よく目と目を闘わせ、相手を威嚇する光景は、今時でもあるのだろうか?

また同様に、ショーアップ盛んな格闘技の興行では、それも一つのサービスであるだろう。

恐らく、目と目を闘わせる行為は古代の呪術合戦が始めで有り、当時では、主に巫女・シャーマンが行うものだった。

一方、「望・国見」というものがある。

権力者が、その支配を示す実修的儀礼として「みる」は、神霊との交通する直接的手段であった。

その土地の地霊に対しこれから支配するぞという呪的行為を表すものだった。

(ひかり)」のイメージ・現象は、何となく子ども達も理解している。

しかし、文字としての「光」の説明、これは案外難しい。この場合の難しいとは、「読める・書ける」事ではない。

先ず、字の下部は「人」の形。では上部は何か?

ちなみに、「光」は会意文字だ。人の形に何かを加え「光」という形義になった。それならば、加えた何かとは?

これを理解させないで、ただ「ひかり」とする学習が、現在の日本の小学校の漢字学習の実体である。片手落ちなのだ。

「光」の上部、それは「火」だ。では、それで何故「ひかり」となったのだろうか?

火を起す方法は

1 摩擦によって擦り起す

2 石等で叩いて起す

3 太陽からの光をレンズをとうして起す

この中で、3は今ならオリンピックの聖火を点火する方法として、ギリシャのオリンピアで行われている事は、ご存知かと。

その「火」。トーチ・炬火でも良いが、その「火」は、聖なる火・「聖火」であった。

そして、その聖火を持つ立場の者、古代中国では、それを聖職として「光」を掌る者だった。

聖火を守って神に伝える職を「光」とも言い、それが「ひかり」の意味になったのだろう。

火と人から「光」字が作られた。

人の頭上に掲げる「火」の意味は、

1 強調する意味

2 神に奉じ上げる意味

さらにいえば、それを掌る立場の職能を表したと考えられる。

古代にあって、「火」は「水」と同様、極めて神聖なるものと考えられていた。

文には「女」の形に従うものが有り、それはまさしく巫女であろう。

ギリシャのオリンピア聖火の主役も女性である。

恐らく、神とともにある聖職として「火」を掌る立場とするのは、古代社会において、洋の東西を問わず共通のものであったと考えられる。

漢字は、その事を私達に教えてくれている。

火と人から「光」字が作られた。

「児」は、また「兒」に作り、象形文字である。

「児()」とは?現在の使用例は、「幼児・児童」等、いわゆる「子ども」を表す。

しかし「子ども」と言っても、それが「児」とどうつながるのか?

また「子ども」とは、どういう存在なのか?単に年齢だけの問題か?

何を以て「子ども」を表したのか?

実はとても難しい。

「児」が「子ども」を表す理由、それはその髪型からだった。

中国の古典『礼記・内則』に、誕生三ヶ月後を選んで、髪型を男子は男角(あげまき・総角)、女子は女羇(たてよこ結び)とする。とされている。

まあ個人差も有り、どれ程の髪型が可能だったかも不明だが、もうこの時点で男女の区別がされていた事実を表している。

この髪型によって「こ・子ども・みどりご)」とするわけだ。

しかし本当に生後三ヶ月?正直疑問である。

個人的には、二~三歳から、これ等の髪型は可能となり、区別されたのでは、と思っているが。

ただし「児」が、幼児の髪型を表すと言っても甲骨・金文の字形から、男角の髪形とするのは、私自身少し違和感がある。皆さんはどう思われるだろうか

「児」は、もと子どもの髪型を表していたと説明した。

ではよく似た意味の「幼」「童」との違いは何か?年齢での区別は有るのか?難しい問題だ。

一方で髪型を主として「児」は加冠・いわゆる元服迄の髪型であると考えられるのではないだろうか。

今で言う「成人式」。日本では現在18歳になった。以前は20歳。では古代は?

ましてや満年齢ではない。正確には不明だが、15歳前後ではなかったか?

ただし「元服」とは、これより軍事にも参加する事を意味するものだった。この時、男子は髪型が変わり、結髪となるのだ。

「児」は、乳飲み子とも言う。現在の満年齢とは違い、生まれた時を一歳で数えた。

古くそれ以後を、男子は「児」。女子は「嬰」、合わせて「嬰児」だ。

『礼記曲礼』に、「人生まれて十年を幼と曰ふ、學ぶ」とあり、十歳迄を幼児と言ったようだ。

その時の髪型を主に「児」としたのではないだろうか。

そして、それ以後仮に元服を十五歳とするなら、「幼」~元服迄の間を「童」としたと、私は考えている。

今でも「幼児・幼稚・児童」等の子どもに対する語があるが、これ等の区別は案外難しいものなのだ。

「兄」の上部は何の形?

何を今更、そんなのは「口(くち)」に決まっていると聞こえてきそうだ。

本当にそうだろうか?

先ず従来の漢和辞典の説をいくつか紹介しよう。

1 旺文社

  人の頭の骨の固まったさまが上部で児童から成長したもの

2 漢字源

兄は頭の大きい子を描いたさま

(くち)」とは言っていない。

なんとどちらも上部は「頭」であるという。

もう一つ、さすがに「頭」は不自然と思ったのか、長らく大手出版社で国語教科書・漢和辞典の編集担当した氏の説明を紹介しよう。

E氏の姿勢は、白川学と従来の説を天秤にかけて、結局折衷したり両論併記してしまった。しかし、その姿勢、私は疑問だ。

祖先を祀る時に、一族を代表してお祈りの言葉を読み上げる長男を表すと考えられる。

また頭の大きい描かれた人の絵から生まれた漢字で、成長した子どもを表すところから、年上の子を指すという説もある。

 ・・・という説もある。という姿勢は如何なものかと私は思う。

もし、それを言うなら、こういう考えがあるが、本来文字の初源「甲骨文字」等の古代文字では、祭祀儀礼を通じて文字が生まれた観点から解く事が正しい。その後古い観念が失なわれ、本義が不明となった為、別の説が生じた

しかし、現在では本義が分かってきた。だから、いろんな説は必要がない。

「兄」を紹介しよう。

一番の肝は上部の形だ。

他の漢和辞典でいう大きな頭や「口(くち)」とするならば、全体象形となるが、白川文字学ではそのような人の器官ではなく、神に祈る祝詞を収める器「口(サイ)」であるとした。

「兄」とは、この祝詞の器を頭上に戴いて神と交流する・神を祭る人であった事を表す。

その展開で、その意味をはっきり表したのが、示偏を加えた「祝」。そして、その人を「はふり」と言い、家の祭事を司る立場として、他の兄弟と区別されたのだ。

それが長兄であった。従って、「兄」は、象形ではなく、会意文字とするべきである。

従来漢和辞典では、よく会意形声文字と見かけるが、この分類は誤りだ。

兄弟であっても祝(はふり)である長兄以外殷代では、ほぼ同列の関係であったと考えられる。

「兄」の甲骨文字には、袖付近に飾りを着けたもの、或いは神に対して跪坐する姿勢の形があります。

これは、祀廟を守り、神事等で神の前にて舞う巫祝の立場である事を表している。

袖飾りとは、単なるファッションではなく、神呼びの装束だった。それはまた、聖職者の身に付けるものでもあった。

「兄」とは、例えば氏族の長に代わって祭祀を行う事もあったという。

このような事を通じ、「兄」とは一族の中で特別の存在であったという事が、ご理解されたのではないだろうか

「先」という字も象形文字か会意文字か悩む文字だ。

一番の問題は上部の意味だ。

古代文字を見れば、上部は「足跡・足趾」の形である事が理解できる。

では何故悩むか?

問題はその「足跡・足趾」が誰のものか?

下部の人本人のものならば象形だ。しかし他人の足跡・足趾ならば会意となるはずだ。

「見・望の初形・聞の初形」と同じく人の上に、その主たる行為を示す、或いは強調する構造で、この「先」も造字されてはいる。

 それならば「人」の上部に敢えて「足跡・足趾」の形を示す意味は何だろうか

一般の漢和辞典の一つ『漢字源』では、「先」は「足と人の形」の会意文字であり、跣(セン・はだしの足先)の原字。足先は人体の先端にあるので先後の先の意味。

確かにもっともらしく説明されているようだが、今一つしっくりこない。

それは漢字とは、こんなただの現象等が文字となるのか?という素朴な疑問。

また文字の構造として、もし自分の足先を上部に置いて、何故会意文字なのか?全体象形ではないのか。

私達の理解は、上部にある足跡・足趾は自分以外のものと考えている。それも異民族の「足」

甲骨文に先行を卜する例が多く見られる。

例えば、軍行の時異民族を除道の為に先行させて、その安否を確かめる事が行われたようだ。

未知なる道は大変危険を伴い、もし道に邪霊が潜んでいたならば、その先行者が被害を受ける事があったという。

先行には衆人・供人のような身分低い者や異民族、また望乗のような特定の職能者を用いるとされた。

先行の意味は、先導の為、犠牲となることを前提としたものだった。

「先」をもし象形と考えるならば、足を強調させ、つま先を示して「先行」とするだけで犠牲となる前提はない。

しかし儀礼としては、それを司る立場の者が存在する。その司る者が犠牲となる異民族を先行させ、行動を表す意味と考える方がより現実的だろう。

この字は象形ではなく会意文字で良い。

漢字が生まれるには、こうした切実なる意味・必然性が伴う事を理解しなければならない。

「先生」とは何か?

字のごとく一般には、「先に生まれた人」。職業としては「教師・医者・弁護士・・・」、今は代議士も先生という。

漢字において「先」とは、先導の意味がある。それは、後の人の為未知なる道・不確実なものに対して、自らが犠牲となる。そんな覚悟を持って挑む立場の人。

 時流に流されず、まず自らが犠牲となってでも率先する改革精神の持ち主のみが「先生」の名に値すると思う。

そんな「先生」を育て、一人でも多く子ども達が出会う事。それがこの国の未来にとって最も必要な事なのである。

人の側身形の組み合わせで、何故「欠」の字が有るのか?不思議に思われる方もあるのではないだろうか。

まず、その字形をよくご覧いただきたい。「人」が発見できると思うが如何だろうか。そう「欠」の下部は「人」だ。

「欠」の訓に「あくび」がある。「欠伸」とは、手を上に大きく背伸びして、口(くち)を大きくあけて大あくびする事を言う。

また部首名においても「欠」を「あくび」

「欠席」という語、学校等で誰かが休んだ事を表す。

しかし「欠」は「あくび」であると説明した。

「欠ける」意味ではなかったのだ。いったいこれはどういう事なのだろうか?

たしかに現行の漢和辞典では「欠(ケツ・ケン・かける・あくび)」等とある。

しかし、「かける」と「あくび」は全く無関係だ。まして、「かける」が正しいならば、何故「人」の形が下部に有るのか?現行では説明できない。

ここに現在の漢字の問題点の一つが関係している

私達にとって今では普通に読んでいる「欠(ケツ・かける)」は誤りだった。

決行の「決」の旁「夬(ケツ)」のくずし方がよく似ていた為、混同してしまったのだ。

「かける」のもと字は缺(ケツ)

偏の缶(フ・カン声は罐の略字)・土器・ほとぎ。従って「かける」とは、土器のかける意味だった。

温泉が噴き出す事を間欠泉と言うが、正しくは間歇泉。

「欠」は大きく口をあける事。そこから噴き出す事を表した。

それなら「カンケツセン」より「カンケンセン」の方が良いかも知れない。

「欠」とは本来、前に向かって口を開いて立っている人の側身形。

口気を発し、言葉を言い、歌い、叫ぶ意味だった。

「欠」の反対の文字が「旡(キ・おくび・むせぶ」だ。

人が食し終わる事を「既」と言い、「慨・漑」等も関連する。

また、これは意外に思われるかも知れないが、「愛」ももとは「旡」の下に「心」を加えた字が愛の字だったのだ。現在のカタカナの「ノ」「ツ」は、「旡」のくずしが変形した形に過ぎない。

前に進みたいが、後ろ髪ひかれる思い。心に懸けて後ろを振り返る人。

それが『源氏物語』等に、「愛は愛なし(かなし)に表現されたのだ。「欠」のまとめとして「次・姿」について説明しよう。

よく学校の教科書・ドリル等業者の教材に、「次」の部首は「にすい・冰()」と分類されているが、それは誤りだ。

本来は「咨(シ・なげく)」等、吐息等口気のもれる形義である。そんななげく女のなまめかしさから「姿」に女がつくのだ。

注意深く見ると「咨」と常用漢字の「次」では、偏の形が異なる。

「次」は「つぎ・第二の」の意味がある。それを思わず「にすい」としてしまったのだ。

ここが大切。戦後、意味が全く違う字を子ども達のリテラシーの為として、よく似ていたら同形にしてしまえという漢字政策が、こんにちの混乱となっている。


# by souu-y | 2023-01-26 16:12 | 雑記

人の形から誕生した漢字

1 漢字は既に記号化。

2 書法の歴史 特に行草体という書き易さを考慮した場合、書き順も複数存在し、更に形と意味が必ずしも一致しない。

3 認知が基本の学習で目的。要は丸暗記

 この事は日本にも当てはまる。芸術文化の書法とは別に、漢字学習は「読み・書き」というリテラシーの問題ではあるが、一方「文字の構造・象形文字の意味」という『文字の原理・原則』を学ぶことは皆無の現状。これはリテラシーだけでは片付けられない。漢字なんか深く分析する必要はない、そんな時間はなく、他に学ぶ事が沢山あるという言い訳が今日も聞かれる。漢字を学ぶ事に時間を割くと、それだけアルファベット文化圏から遅れてしまう。これが近代、あの魯迅が発した言葉だ。

何かこの発言が、今も私達に覆い被さっているのだろうか?

日本の学校では「左」「右」の書き順は違う事は教えている。しかし字形の違いは?成り立ちは?これ等を教えていない中途半端な姿勢によって、実は中華圏の漢字学習より、更に混乱する恐れ、「字形が同じでも書き順は違う」事が生じた。

漢字学習は一ついろんな説があると妥協すれば、次々に矛盾が明らかになる。その矛盾を一つ一つ丁寧に解いていくには、大変な労力を要する。だから始めから諦めてしまい、結局丸暗記。

 「左」「右」は同じ手ではない。それぞれ独立した左手・右手なのだ。

従来一般の漢和辞典での「右」の解字解説は、上部は「又」で右手。下部は口耳の「口(くち)」として、右手で食べ物を持って(或いは箸を持って)「口(くち)」に運ぶ等とされていたり、或いは右手と口(くち)で、「たすける・かばう」意味とされている。 

このような下部を口(くち)とするなら、人は手・腕の下に口(くち)があるという事になる。

また「右」に対して「左」は、左手で下部の「工」を持つ・ささえる意味としている。

このように「右」「左」がバラバラな解説である。

しかし「右」「左」は同じ行為で。共に左右それぞれの「手」で、何かを持つ・ささえる意味と考えることが自然だ。それならば、「右」の下部が「口(くち)」という器官は不自然だ。

「左」字の下部「工」について。「工」は三種に分類される。

1 工具

2 神事に用いる呪具

3 ゆるく湾曲するもの

 従来の漢和辞典では、2の呪具がわからなかった。

「左」「右」は古代においては神事・祭祀用語であったと思われる。

 従って、全て神との関係における意味として考えられる。そして日本語においては「又」も「右」も「左」も「たすく(ける)」という訓がある。まさに神の佑助・佐助を表す。

 現在学校の体育においても、例えばラジオ体操等、その所作は左・右の順で行われる。実はそこにも古代からの神事の所作が隠されているのだ。 左・右・左の順、ここに所作の意味がある。

左手には呪具である「工」を持ち、それを振り揺らして音を鳴らし神を呼ぶ。そう呪具「工」は神呼びの道具。隠れたる神を神呼びの「工」で振り向かせた後、右手に神への祈り・願いのことばが入る器。それは後に「文」として器に収められた。これにより神との交信が成立したのであろう。

現在でも神社の巫女が舞う。お隠れになる神を引っ張り出して、喜ばし楽しませるものが「舞」で有り「楽」であったのであろう。

巫女が左右の手をいっぱいに広げる。さてそれは何を表したのか。左右の手を広げた形、それが「尋」となるのだ。よく寸法として表す場合、自分の身長が左右の手を広げた形に近いとされた。古くからの知恵だが、それを「一尋」と言う。「尋」は「たずねる」と読む。では何を「たずねる」のか?

 そう、隠れたる神の所在をたずねるのだ。

「尋」の解字、そこには若干字形の変化が有り、注意する必要がある。

字形の上部、現在ではカタカナの「ヨ」に見えるが、すぐ下の「工」と組み合わせ「左」。下部は「口」と「寸(寸は又の分化)で「右」を表す。そのような「左右」を縦に組み合わせた「尋」字が現れるのだ。

 巫女が左右の手を広げ、上げ下げする所作を思い浮かべてみよう。そう左右左の順で。「尋」の対語が「隠(かくれる)」だ。旧字体が「隱」。

呪具「工」が現れてきた。その呪具「工」の上下にがある事がお分かりだろうか?

ここを子ども達に見つけてもらうのだ。

上部は、今で言う「爪」、本来は上から下に向けた「手」の形。下部は「又」の変形だ。

つまり、神呼び・神隠しの呪具「工」を上下の手で隠している。そして、その心情を「心」加え表す。

偏の「こざとへん」は、従来の漢和辞典で「丘」の意味とするが、もとより誤りだ。本来神々がそれをつたって昇り降る神梯(はしご)なのだ。

 宮崎作品の「神隠し・神尋ね」の物語が、この「尋」「隠」の二字によってさらに説得力を持つと言えるだろう。

残念ながら現在の「隠」字には、神尋ね・神隠しの呪具である「工」が失われてしまった。宮崎作品には、現代社会における人間の傲慢さに対する警鐘が鳴らされていた。

漢字の世界でも同じだ。不条理とも思われる古代の呪的世界にあって、この生き証人ともいうべき漢字には、現代社会に対して、その警鐘に対する知恵やヒントが隠されていると考えられる。

問題は、むしろ我々の側に有るのだろう。

漢和辞典の問題点1つとっても、解字における説得力のない解説からの脱却が必要だ。

古代文字を通じて「又」が右手である。という解釈があってこそ他の関連字も理解できるのだ。

「寸」が、手に関する字、それも「又」からの分化から生じたという事実をご存知の方は少ないのではないだろうか?

 日本の小学校では、「寸」は六年生で学ぶ。しかし「寸」に関連する「村」は一年生で学ぶ。しかも用法として、多くは「寸法」の語であるが、果たして小学生が「寸法」という語を使うだろうか?

「寸」の最後の一点は、指一本の幅を示したことから、「わずか」の意味が生じる。

ただ本来は、「又」の分化。「寺」「導」等の木簡に「又」の字形が存在する。何故「又」から分化したのか?ここに「寸」の隠された意味がある。「又」に対して「寸」には、「付け足す」「付随」という意味があるのだ。

漢字には両手の動作を表す字も、幾つかある。

下から上に捧げる形、上から下に丁重に支え下ろす形、横向きの両手の形等だ。

その中の一つ、「興」の上部、「同」を挟んだ形が左右の手を表す。

此れは左右の手で何かを持ち、上から下に下ろしたり、物を大切に扱う形である。

行為・所作の一例として、陶芸における「轆轤(ろくろ)」も、その一つだろう。「土の塊」を両手で押し上げ、成形して行く過程は、まるで手品を見ているようで、飽きない。

ここでは「土」が、何か神聖なものに感じる。両手を使う「型」の存在があるのだ。

そう!、神聖なものを持つ”“扱う場合、私達は両手を使うのだ。11年前の東日本大震災のあった、福島県飯舘村の「真手ライフ」を覚えている。

また歴史的に見ても、土器制作は、人類による創造の第一歩であった。

人の手の形の肝が「又」ならば、人の足の場合は何か?

漢字学習会で「漢字クイズ」の定番として、まず「動物クイズ」。そして次に「自然の形」を提示する。その後「人の形」に移っていくが、「手」と「足」の字は、特に抑えておきたい基本中の基本である。

「足」の肝は「止()」であった。

「止」は、意味としては「止まる」であるが、文字の構造では「之(行く)」が基本だ。

 極論するならば、単独の用法なら「止まる」であるが、「止」に何か別の要素が加わった文字の意味では、「行く」となる。

「止」は、足趾(あしゆび)・足跡の形、それも左足を表す。その親指が古代文字において、一つ外に飛び出ている部分だ。

「止」の字形でいえば、それが左上の短い横画になる。(上の短い横画とは、全く違うもの)

 古代文字には、足趾の特徴、つまり内側は直線的に描かれ、外側は膨らみ、踵(かかと)の部分が角ばっている事等理解できるのではないだろうか。「止」が左足なら、その反文の字形は右足。

左足が上に、右足が下で描写される文字は何か?

現在の新字体では、下の右足の形が「少」となっている。何故?

此れは書道でいう「補完の点」「止」の反文の形を書いて、後で一点を加えた。いわば字形とは無関係な一点だったが、字形だけ見れば「少」に見えたのである。

左右の足趾の形で、基本左足が一歩前に出た形が「歩」である事は、理解されたと思う。

「止」の変形、例えば「足・走」の下部の形。また「足」が偏になった足偏。

 さて、ここで質問。

「足」の下部は「止」の変形で足趾・足跡である事は既にご承知だろう。

 では、上部の「口」は何か?

 もしかして、口耳の「くち」だと思われていないだろうか?それでは「くち」の下部は全て足になってしまう・・・

足」の古代文字と絵がお分かりだろうか?

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「足」の上部は、膝頭。

「足」とは、人の「あし」。膝頭と足趾(足跡)を合わせて、形とした。

「走」の字形は不思議である。何処が不思議か?と思われるかも知れない。

今の字形、下部は「止」の変形。これは良い。         問題は上部。なんと「土」である。

それでは「走」は、土の下を走る事になってしまう。

ここで注意。漢字において、上部に「土」が来ることに疑問を持とう。

人は、土の上を走るのであるから。漢字は上部に「土」がある時には、何かの字形が変形したと理解しょう。

「走」もその一つ。上部は、小学校等の運動会で徒競走があった。その時、立ったままのスタート。「ヨーイ」の姿勢。両手を前後に大きく構える。「走」は、まさにその姿勢を表している。

日本人にとって「走」は「はしる・かけ足」の意味だが同じ漢字でも中国等では「歩く」意味となる

また、その歩き方・走り方だが、通常私達は、右足が前の時は左手が前にある。しかしこれは明治時代以降の事、従来は右足が前の時は右手が前であったようだ。正確には、手はほとんど固定状態だったのではないか。日本で、恐らく宮中(城内)廊下を急いでいる場合、ドタドタと駆け足する事は許されない。急ぎ足・早歩きであった。実はそれが「走」は、もと祭祀用語として用いられたことを表したものなのだ。日本も同様だった。「走」に対し、より早く駆け足するのが「奔」。合わせて「奔走」という祭祀語となる。

「先」の疑問。「先」を時間に移すと「往昔・先後」は「むかし・過去」を言い、一方「先見・先知」は「未来」と、相反する意味が生じる。恐らく後ろ足である右足の趾を横向きにした形。

 甲骨文には、先行を卜する例がある。それは軍行の時、異民族を犠牲として先行させ、その安否を確かめる事を表していた。つまり「先行させる」事によって「さき・まえ・まず」の意味であった。一方、先行するのは異民族。させる側は、その後ろにいる。犠牲者は後ろの人の為に犠牲となる。

犠牲は後ろの人の為、それはいわば「これから先・未来」につながり、前の犠牲者は、既に「過去」の意味となっている。

 これが「先」の謎の解明だ。

「正」の甲骨文字は、上部は「邑」にある「口」の形であったようだ。しかし、これでは物の大きさを別にすれば「足」字との区別がつかない。

 そこで「正」は、上部を塗ったり、抽象化し、現在の横画「一」の形になった。「正」の本義は、征服の「征」の意味である。いわゆる征服者側の論理で作られた字で「邑」への進攻が「征」。さらに「攴(ボク・うつ)」を加え、強制的に税を徴収する意味が政治の「政」である。

「足」に何故「足りる」の意があるか?

それは、この「正・征」の意味が、「足」との字形の混一とともに生じたと考えられる。そうすれば「満足」という征服によって満たすことで理解できるのではないだろうか。

「出発」の「出」。これも従来の漢和辞典では、足跡の下に「くぼみ」を表す形とした。

もしそうならば、何か「くぼみ」に足をとられた状態で、そこから抜け出した形が文字なった。これでは何かへまをしたことを表す。漢字は、そんなへまを字形とする事があったか疑問だ。「出」とは、帰還儀礼を表すもの。

古代の世界は、神々の跋扈する世界で、いわゆる自らの陣地は、守護霊に守られた地である。しかし、そこから一歩出れば、そこは邪霊・鬼が跋扈する危険な所となる。その為、それを防ぐ様々な呪術が行われたと考える必要がある。「出」は、まさにそのような状況の中で生まれた字だった。

 現在の字形は、上部の「足())の形が分かりづらくなった為、注意する必要がある。

「出発」の「出」と同様に「発()」の上部も足に関する字である。

日本では部首名を「はつがしら」と言うが、それは「発」の上部(頭・かしら)」に用いられている事より、その名称としたに過ぎない。学校でも、この「はつがしら」の書き順は難問とされている。恐らく昔から今日迄、何の解決案もないままに、ひたすら丸暗記で覚えさせる方式が繰り返されている。

左右の足跡を並べた形から、それぞれ90度回転させた形が「はつがしら」の正体である。書き順は、それぞれの親指を最後に書く。現在では、向かって右側(右足)の形が変わってしまった為、書き順が分からなくなった。発のもと字「發」は、左右の足跡が並んだ形と弓を射る形で、邪鬼を払い、いざ「出発」と両足を揃える姿勢で表した。

「降(コウ・おりる)」も、足に関する字である。「発」の説明では、「止(足跡)」の形を90度回転させた。同様に90度づつ一回転させた左右の足跡を確認してみることが必要である。

「歩」は、左右の足跡を、縦に左足を一歩前にした形。では、その倒文の形は何か?

もし「足跡」の形を回転させる事が出来ない場合は、手のひらを使って、足のイメージをしよう。ただし必ず手のひらは下を向ける。下向きにして、親指以外人差し指から小指迄をくっ付けておく。手首辺りが「足の踵」になる。そのまま、90度・180度と回転させる。ズバリ「歩」の倒文は、「降」の旁となる。

「降りる」とは、神様の降りる意味。神様は左足を前にして、天から降りてくるのである。

神様は、左足から先に降りるとされた。「降」の旁の上部、此が右足で後ろ足である事は、理解できただろうか。例えば、関連字「逢」等に見られる旁の上部の形は、右足の後ろ足のみである。何故か?それは既に左足は、目的地に到着している事を想像させるからだ。字形として誤りやすいのは、「降」の下部・左足。

 字形として四画目の縦画が、上下突き出ているが、それでは本来足趾の形には見られない。左足を表すなら、四画目の縦画は、下部のみ突き出すのが正しかったはず。字形のバランスを優先した為、現在その説明が出来なくなった。

「舞」と「無」は、よく似た字形だが、学校ではあまり着目されない。上部は同形だが、一方は「舞踊」、一方は「有無」等に用いられ、二つは関連が無いように思われるからだ。

しかし漢字は、構造の要素が同じなら、やはり何らかの関連はあると考える必要が大切だ。「舞」のもと字が「無」「無」とは本来、袖飾りをして舞う巫女が、雨乞いをして神に祈る形だった。下部は「れっか」の形だが、もとより「火」の意味ではない。袖飾りの飾り紐が、左右に垂れ下がった形を誤ったと思われる。「橆」が「無」の異体で、左右の払いが四つの点を残している。

 のち「無」が「亡(ボウ・ム・なし)」と通じ「有無」の意味に用いられた為、下部に左右の足趾を加えた「舞」が作られた。

左右の足の説明をしなければならない。両足の形として、「出発」の「発」の上部を解説した。その場合、人は前方・向かい側を向いている。したがって、足は左側がそのまま左足を表す。しかし「舞」は、こちら側を向いて舞う形と考えなければならない。したがって、こちら側を向いた巫女が、左右の足を外側にステップを踏んで舞う形を表す。この場合、向かって左側が「右足」となることを理解する事が大切である。ただし、現在の字体は、字形が変化(改竄)されてしまった。

「右足」の形が、夕方の「夕」に、「左足」も、上部に縦画が突き出てしまった為、左右の足趾が分からなくなったのだ。

次に「行」そのものは「足」とは無関係だが、関連がある。

「行」は現在、漠然と「行く・行動」等に用いる。また音は「ギョウ・コウ」と読む。しかし、本来は象形文字で「交差点」の形を表す。それとは別に「銀行」という用法がある。何故「銀行」に「行」が用いられるのか?学校では教わらない。現代中国語では、二音有り、それぞれ別の意味・用法で区別されている。日本では、「行」「ギョウ」声は、行列等「ならぶもの」の意味が有り、それより「みせ・職業」となり、それが「銀行」につながるのだが、しかし、それは「コウ」声。

という事は、中国語とは違い「ギョウ・コウ」の音の区別だけでは解決は出来なく、字源とその展開義を学ぶ必要を改めて感じる。

「後」旁の下部に「足」の形がある。足趾の形「左足・右足」を確認しよう。右足の変形に、その形を確認できる。しかし、一つ注意が必要。

 恐らく、もとは同字・同源だったと思われるが、のちに文字の上部にある場合「降・隆・逢」等では、上から降る後ろ足(右足)で、チ声。一方下部にある場合、「夏・復・後」等では、前に進めない・後ろ向きの足、スイ声と区別されたのである。

 ただし「変」は、もとは「攵」で有り、新字体は誤り。

「後」は「行」の偏である「行にんべん」より、道路に関する字。

旁の上部は、糸に関する字(幺・ヨウ)。それは邪悪なものを防ぐ、御・禦の甲骨文に、杵の形と共に幺に従う字がある事からも、「後」とは道路で敵を後退させる事を求める呪儀だったと考えられる、

「しんにょう」の意味は?・・・高学年も高校生さえも分からない。

日本の学校での漢字学習は「読める・書ける」そして「部首の名前」を覚える事が目的となっている。

「しんにょう」の名称は、日本でしか通用しない。その名称は、「進(シン・すすむ)」から、シンの「繞(にょう)」から採ったのだろう。

本来は、「チャク」という音で読む漢字一字を表したものである。

では、その意味は?

それが本来大切な事で、名称だけ教えて、その意味を教えない学習は、もう終わりにしなければならない。

「しんにょう」は「行にんべん」と「止()」・足趾の形を組み合わせて作られ、それが「チャク」の音だった。

「止」は、この場合「之(行く)」の意味。「行」は交差点。それで「道を行く・進む」意味となる。

 このように、「しんにょう」を部首として考える場合、すべて「道を行く・進む」等の行動が生じる事を、子ども達に理解させる必要がある。

しかし、残念ながら現在の漢字学習は、そうなっていない。恐らく現場の教師の多くは、その意味を知らず、子ども達に教えなければならない。

 此れは、単に現場の責任ではなく、国・行政・大学の怠慢が招いた結果だと考えられる。知らないふりをしている事も、同じではないだろうか?

「違」は、「しんにょう」がある事からも道路に関する字である。では旁の形は?

 字形の中程は「邑」の上部と同じ「ロ(ヰ・イ)」の形で、邑(むら)を表し、その上下にそれぞれ足趾・足跡の形がある。

現在の字形で言えば、左足となる。この場合、こちら側から見て、「ロ」を挟み反時計回りの巡行を表す。それが「めぐる」。

 一方、一般的な読み「ちがう・たがう」は、上部の足跡を左行、下部の足跡を右行と見た場合の解釈だろうか。

また「しんにょう」の代わりに、交差点の意味「行」を加えれば「衛・まもる」となり、邑にさらに周囲の囲いの意味「ロ」を加えれば「囲()・かこい」となる。

「女」字の甲骨文字を見せ、これ何の字か分かる?と質問すると、「虫」という答えが返ってくる。

 白川文字学を学習された方が、実践の体験で此れにあたると、その予想外の答えに、その後しどろもどろになることがある。確かに「女」の古代文字と「虫」の形はよく似ている。違う点は、左側中程が交叉した形が「女」である事。下部の形、「女」は屈折する。観察力が大切である。

子ども達には、この字が「ひと」の姿、それも「女」を表すと理解させなければならない。しかも跪坐という、いわゆる正坐に近いひざまづく姿勢であると、時間をかけて根気よく説明する事が必要である。それが屈折した形の意味なのだ。小学校で「女」の字を学習する場合、よく書き順を中心に「く」「ノ」「一」と覚えさせる事が見受けられる。これは「女」字を覚える一つの方法だが、その意味は「女忍者」とは無関係である事は注意しなければならない。

「女」の字形は、両手を前で重ね、ひざまついている形だ。

では「女」字の何処が両手の形だろうか?

古代文字の「女」から現在の「女」の字形の変遷の中、書字上の書きやすさから、90度回転された事が分かる。そして、頭から足にかけ、足の屈折した形が、ほぼ直線となり、それが最終画の「一」となった。

つまり、本来両手の重ねた形が、現在ではの部分になっている。「女」字は、単に「おとこ」に対する「おんな」という性別を表すものではなかったと思われる。その姿勢は、両手を前で重ね、ひざまづいた形なのだ。何に対してひざまづくのだろうか?従来の漢和辞典の中には、「男」の前にひざまづく形と説明するものがある。男尊女卑を表したものだろうが、もとより誤りだ。

古代において、ひざまづく対象は、当然「神」。しかも「女」は、若い「むすめ」を意味したのであろう。或いは嫁にきた新嫁に対して言う場合もあったと思われる。

 何れにせよ、神・神霊に対して、うやうやしく接する態度が、字形に表現されている。「女」字の二画目が、三画目の横画よりも上に突き出たものを× とされる事があるようだ。

「出る」か「接する」か「離す」か?

 このような事で ×となる事に意味はない。このような事に終始する書き取りテストは、もう終わりにしなければならない。

「女」の形は、「母」の字の二つの点を省いたものが、もとの形。それならば、「女」の二画目が横画よりも上に出ても何の問題もないはず。「母」の二点、その正体は、万葉集の枕詞「垂乳根(たらちね)」の「母」である。そう、生命を育む乳房を表した。

字形の変化、「母」字も90度回転した事も理解されるだろう。

「母」は三画・四画目の「二点」、それは本来女性の乳房を表す事は前回説明した。

では「毎」「海」等は?

現在日本の新字体では、別形となっている。しかし旧字体では「母」の形だ。台湾の繁体字も同様。

 日本では、戦後の新字体になって「母」字に、何かを加えた場合、「海」等の下部の形に変えてしまった。

 その字は、本来「母」と同じ字だ。その後「母」に対して、不定詞の形に専用したものである。

また現在、この字形の三画目を縦画で教えると聞こえてくる。これは疑問だ。よく似た形で別字に「貫」の上部の形。これと混一している。スマート機能も含め、印字にも混乱状態だ。

「若」が「女」の形と説明すると驚かれるのではないだろうか?

また「若」が、何故草冠なのか?と尋ねられ、正確に説明できる国語教師がどのくらいいるのか?

残念ながら皆無だろう。それは何故か?

実は教師になる前に、大学で「漢字」を学んでいないからだ。

以前から大学で教師を目指す教職課程に「漢字」の科目を入れるべきであると、地元の代議士等に提案し続けているが、残念ながら、その必要性に全く気付いていない。

「若」は、音読みで「ジャク・ニャク」、訓読みで「わかい」とだけ教え、後は書ければ良いと。しかし「若」は、それ以外「もしくは・したがう・なんじ」等の訓もある。

 さらに字形について、草冠は?右の形は?

一体これ等を含め、「若」の字は、最も教師泣かせの文字なのだ。

「若」は、見たままでは上部が草冠、下部は右だ。しかし、これ等二つは、「若」の意味とは無関係。

「若」の成り立ちは、甲骨文字より、神に仕える巫女が長髪を靡かせ、両手を挙げ左右に振りながら舞う。いわゆるエクスタシーの状態で、神のお告げを求めている形なのだ。

甲骨文字の両手を振りながらの形を草が靡いていると誤った事が、草冠としてしまった正体だ。さらに「右」の形も、甲骨文にはない。

では何故「右」の形が生じたのだろうか?

それは、甲骨文の後、西周後半期の金文とその後の字形の変遷に答えがある。

西周金文は、初期・前半期と中・後半期とは字形が異なる事があるようだ。

「若」字は、後半期になって、いわゆる神への祈りの文である祝詞を収めた器「口(サイ)」が加わった。その意味は、或いはこの頃文書化され、収められる事であったかもしない。書道でいう木簡に、書法上の流れが確認できる。

「若」に「口(サイ)」が加わっただけでは「右」字は生じない。字形として、当然本来は、髪の靡く部分は、両肩よりも上にあった。それが書法の変遷で、両肩より下になり、さらに頭を傾げた形を、「又」の形と誤ってしまった。両手を草冠の形と誤った事と合わせて、現行の「若」の字形となったのである。

 こうして生じた篆書体の誤った字形から、例えば日本でも『諸橋大漢和辞典』では、「手に菜を選びとる」意味と解釈してしまった。「若」の意味は多義である。神のお告げを求めて祈る巫女に神が憑り付いて、そこに神意が伝えられ、うっとりしたエクスタシーの状態となる。そこで、伝えられた神意をそのまま伝達する事を「若(かくのごとく)」神意に「したがう」巫女は、より若い方が、神は憑り付きやすいから「わかい」と。一方、若い巫女は、ある意味見習い中でもあるから誤りもある「もし・もしくは」後に言偏を加え「諾・否」の意味にも用いられた。

このように「若」は、たった一字で複数の意味・訓が生じた。しかし、それは巫女に神が憑り付くエクスタシーの状態という現場・目の前に起こっている現象が、そのまま「若」の意味となった。

 漢字は、このような目の前の出来事が形象化したものでもある。

「若」によく似た意味の字に「如」がある。従来の漢和辞典では、「女」に「口(くち)」女は声符、人の言葉によく従う意味とされている。しかし、わざわざ背後や下方に「くち」があるのは不自然である。

「若」は、巫女が神のお告げを求めて祈る意味であったなら、「如」も人に対して、従う意味ではないはずである。「口」は、白川先生によって祝詞を収める器の形である事がはっきりされた。それならば、「如」もやはり巫女であり、神のお告げを受ける意味である。神意を「諮り従う」、それより仰せの「ごとし」神意を受ける態度から「うやうやしく・しく」となった。巫女が神意を受け、その心の状態は他を推して諮ることより、「如」に「心」を加えた「恕(ジョ・ゆるす)」となる。

如に何故「女」が付くのか

「如」が「若」と同じく神のお告げを求めて祈る意味であると説明した。

しかし、「如」に草冠を加えた「茹(ジョ)」は何故「ゆでる」と読むのか?

実は、この「ゆでる」は日本語の「国語」の用法である。しかも上部の草冠は、「若」と同様で、誤りから生じた。

「茹」とは「若」の異体字と考えられる。

「如」に、巫女のエクスタシーの状態より「柔らかい・くだかれた」等の意味がある。

本来草冠ではなかったが、のちに熱湯に入れると柔らかくなる菜という意味に用いられ、国語で「ゆでる」としたのだ。誤りの解釈にも、そうなった理由がある。


「安」について

安心・安全の「安」に、何故「女」がついているのか?

以前、現代中国語を専門とされる漢字学者が、女の人が家で、旦那を仕事に送り出し、呑気にワイドショー等をお菓子をつまみながら、くつろいでいるのが「安」であると説明されていた。

面白おかしく漢字をネタに話すのは自由だが、それが子ども達の学習となれば、そのようなふざけた解説はいけない。世の中、そのような類いの漢字解説がなんと多い事か。

「安」の訓に、「やすらか」がある。日本語の訓読みは、漢字本来の意味に対応した素晴らしいものだ。

子ども達への投げ掛けとして、「この漢字は、何故このような訓があるのか?を考えされる事が必要である。

以前「女」字は、神・祖霊の前に跪づいて「うやうやしく」接する態度を表すと説明した。

従って、呑気にくつろいでいる姿ではけっしてない。上部の「ウ冠」の解釈が重要だ。

 従来の漢和辞典では、家の屋根の形とするが、古代の住居は半地下式の竪穴住居。「家」は、本来は家廟・祖先霊を祀る「みたまや」であり、その屋根であると考える必要がある。

「安」は、祖先霊に対して一生懸命奉仕する「女」(この場合嫁いできた新嫁か)であり、そして、それに対し祖先霊によって、その「家」での安寧が約束された。それが「やすらか」である。

「愛」と「恋」と「好」で、一番好きな文字は何ですか?と若いカップルに、少しヤボな質問をしたことがある。現在の語の意味と漢字本来の意味に齟齬がある為、彼らは愛情の深さを考えた様だ。

この三字の中、明らかに「女」の字が含まれるのは「好」そして「好」には「子」字が含まれることより「好」とは、本来母子の愛情に関する文字であった。それならば、「女」より「母」の方がふさわしいが、「母」と「女」は、例えば「毎」という古代文字では、「女」の字形もあった。

つまり、「女」字は一筋縄ではいかないことを表している。

「好」字とは本来、母親の我が子に対する愛情・慈しみの意味を表す。

興味深いのは、単に愛情を表すだけなら、字形として母親の前に子を表す必然性は無いように思う。

現に甲骨文より千年後の「篆文」では、すでに現在の「好」と同様、「女」字の後ろに「子」の字を表している。「子」を前にする理由は?古代神聖国家では特別な意味があったのではないか。それは「子」を戴く意味だったのではないだろうか。

 甲骨文の「子」は、親王家・王子階級を表す。それが後の時代、神聖国家崩壊以降、単に「子ども」の意味に変化したと思われる。

「好」は後に、その語義が広がり、「よい・このむ・うつくしい」等の用法が生じるのは、この語義の変化が影響するのだろう。

漢字を学ぶ上で、同じ「人」の形を表すものであっても、「側身形」と「正面形」を分けて学ぶ事が大切である。

「人」の字が、ニ画で描かれた側身形である事は既に説明した。

 では、「人の正面形」は?

その基本が「大」である。「人の正面形」は、その事が大変理解できる単元である。

残念ながら、学校でのタブレット学習には、このような教材を用意できていないのが現状なのだ。漢字というのは、一字一字独立させて覚えるものではない。関連性を含め、体系的に学ぶ事が必要である。

「大」を表すのに、何故手足を広げた人の正面形としたのか?それを「ものが大きい」という意味としたのか?恐らく、周代金文の「大保」関係の青銅器に、「大」を特に図象化させ、優れた体格の形に記すものが関係したと思われる。「大保」とは、当時の最高の聖職者であったとされる人物。従って、「大保」の体格そのものが大きかったという訳ではなく、その聖職者の権威を強調・誇張したデザインだったのではないだろうか

従って、その権威の大きさを拡大させ、「もの等が大きい」意味に用いて行ったと考えられる。

「大」の形義そのものは、「手足を広げた人の正面形」であると説明した。其処には、隠された意味が存在するのではないか?

あくまでも仮説である。しかし、仮説をたてていかない限り「大」及び、その関連字である「人の正面形」の各字の意味が、はっきり見えてこないのである。

恐らく儀礼に関する文字であった。

儀礼に臨む威儀を正した姿勢の形であった。そして、関連する「天」と通じることから、「王」やそれに近い立場、及び儀礼の主宰する人物を表すと考えられないか。

イメージとして、日本の伝統文化である大相撲の横綱土俵入り、正面に向かって威儀を正して立つ、あの姿勢が「大」の形義に近いものだったと思う。

広い意味、神に対して特別に捧げる対象となる立場と言えるだろうか

「大」に一種の身分を伴う意味があるという事は、その関連字を通じて明らかになってくる。

その一つが「立」字である。しかし現行の「立」の字形から、この字が「大」の関連字である事は分からない

 甲骨文では「大」の下部に一本の横画を加えた形が「立」である。

従来の漢和辞典では、地面()の上に手足を広げて立っている形が「立」としている。たしかに、現象としては、そうなるが、単に立っているだけの意味である。何故手足を広げ、さらに敢えて正面を向いていなければならないのか?そういう視点が大切なのである。そう古代神聖王朝の現場が、其処にはある。

「立」の下部の横画は、単なる地面の意味ではないのだ。

ここには二つの意味がある。

1,その地は神聖な場所。

 ある特定の意味を持つ場所、すなわち儀式・儀礼の行われる地。

2,そこに参加する人の地位・位置を表す。

 このような神聖な地で行われる儀式に参加することのできる身分。

 その事を、はっきりさせたのが、「立」に人偏を加えた「位(イ・くらい)」である。

甲骨文字から現在の字形の基となったとされる篆書体の段階で、字形が変わってしまい、本来の形と意味が繋がらなくなった事が、「大」と「立」の関係を分からなくした理由である。

当然篆書体を基に字源を解釈した『説文解字』には不備がある。

「立」の関連字に疑問の有るものがある。

『「泣く」に何故「立」があるのか?』

泣く事に、立って泣く必然性はない。

「泣」は形声文字である。声符「立」に「リュウ・リツ」がある。「リュウ」の声に「粒(つぶ)」字がある。此れが関係する。

「泣」は、つぶが滞るようにヒックヒックとむせぶように泣く事を表す。「さんずい」が涙、「立」は立つと言った会意文字的な解説だけでは、漢字は解けない。形声文字の解き方を学ぶ事が、漢字学習には必要だ。

ただ覚えるだけの学習で済ましてはいけない。

「立」の関連字で「並(ヘイ・ならぶ・ともに)」があるが、この字も現在の字形からは「立」との関係性が分からなくなった。「並」は、立っている人が二人並んだ形だと甲骨文字を見ると一目で分かる。旧字体も「立」が並んだ形「竝」で書かれ、それは現在も中華圏では用いている。同じ「ならぶ」でも「並」は正面形。それは左右ほぼ対等という意味でもある。対して側身形の「併(ヘイ・ならぶ・ともに・あわせる)」は、訓読みはほぼ同じだが、決定的に異なる事がある。それは、前後に差がある。対等ではないという意味だ。

よって「合併」とは、力関係が生じるということなのだ。 

「夫(フ・フウ・おっと・おとこ)」の字も、普段気にしないが、よく見ると「大」に近い形だ。

「大」の上部中程に「一」を加えた形が「夫」。大切な事は、「一」が一番上にあるわけではない。それは何故か?また何を意味するか?

その「一」は、頭部に挿す笄(こうがい・かんざし)を表す。それは王族・貴族等の成人男子の正装の姿なのだ。しかも甲骨文の用例は、ある特別な「夫」に対するは「妻」。つまり「夫妻」とは、王族等の結婚式での男女の正装の姿を表す字だった。男子正装の姿である「夫」は、その後社会環境の中で、意味・用法が多義化して行った。

「夫」の字は、一体男なのか女なのか?

初めの意味は、髷(まげ)に笄を挿す男、これは結婚式での花婿の正装姿である。また、それとは別系で、金文以降主に農夫等下層階級の「おとこ」の意味に用いられた。

いずれも男性を表すが、しかし「夫」は、社会共同体の変化の中で降下する運命をたどった。

一方「夫人」という用法がある。

これは本来花婿の正装の姿を表す尊称が、そのまま身分有る人の尊称として展開定着したことで生じたと思われる。(孔子も夫子)

恐らく男女の区別なく「夫()の人」と呼んだ事の展開で、後に既婚女性に対して「・・夫人」と呼ぶようになったと考えられる

「夫」字とよく似た字形であるが、全く別の字に「天」がある。

「天」も「大」字と関係が有ると言われても、すぐにはピンとこないが「天」は、天空・大空の意味だ、と言われるだろう。しかし、よく字形を見れば、「大」の最上部に横画、古くは等を加えた形が「天」だった。

「夫」字との字形の違いは、横画が「天」が最上部にあるということである。

この最上部に重要な意味があるのだ。用例としては、古く甲骨文には、神聖王朝殷の都を「天邑商」・「大邑商」と。是等は、絶対王が治める神聖なる商王朝()の都という意味と理解して頂きたい。この事からも、「大」と「天」はほぼ同じ意味にも用いられていたのだ。

また「大」が人の正面形で有ると同じく、「天」も当然、人に関する字であった事を理解する必要がある。

「天」は、もともと人の頭上を指す語であった。

 恐らく「王」なら、頭に笄を挿し、更にその上から、王の象徴とした、上から被うものを被っていたと考えられる。後の時代の冠(冕ベン)にあたるものだったと考える。後の文献『通考』には、冕は卿大夫以上の者だけが用い、旒(リュウ・たれ)の数は、天子十二、大夫三等という。

 殷の時代の正確な事は不明であるが、恐らくそのような冠髪をした姿形を「天」として表したと考えられる。

天は天空の意味?

「天」は、人の頭頂を指す語だった。それが天空・天上の意味等に移っていった過程に、殷から周ヘの王朝の交替があったと考える。殷は神聖王朝で有り、王の継承は直嫡を主に特定の王家の中からでしか成立しなかった。

一方周は、王朝成立後、その国家経営はどうしたか?

創建当初は、殷の民・豪族の協力は必要だった。一方で、神聖王朝としては周に正統性はない。そこで周は、神に代わる概念として、「人の徳」という理性によって作りあげる思想「天命思想」を創出した。

神は王朝の祖先とした殷に対して、周はもっと普遍的に民に支持される天の命に対応するは、人の徳性によって選ばれるとした。

このように周では「天」が「神」に代わる概念して昇化した。それによって「天」は天空の意味が生じたのであろう。

「大」に関連する字について説明してきた。関連する字を通じて「大」は、単にものが「おおきい」という意味ではない事はご理解頂けたと思う。

もう一つ不思議な字がある。それは「太」。

特に「大」とも通じ、「タイ・ダイ・タ・おおきい・ふとい・はなはだ」等と読む。

「太」の下部中央にある一点の意味は何か?

従来の漢和辞典では「大の大」の意味として、大の下部に「二」を加えた古文の形の省略化とした。勿論、それは誤り。もし、それが正しいなら「炎・林・昌」等の字形も省略形とするはずだ。

 漢和辞典は誤りを認め、正さなくてはならない。

「天下太平」という語をご存知かと思う。また此を「天下泰平」とも記す。実は「太」は「泰」の省略形と考えて良いと白川先生は述べている。儀礼を表す。

「泰」の古代文字がなく、古俗が不明となっているが、「篆書体」の字形からも「泰」は、「大」と左右の手と「水」に従い、水中に落ちた人を両手で助け上げる形を表し、それで「安泰」の意味と解されている。「大」の意味が今一つ不明瞭な事が、古俗が不明の意味だ。

従って「泰」字中、左右の手を略し、「水」字を一点のみで表したのが「太」となる。

この事からも「太」「泰」「大」は通用の関係であり、是等は使用上あくまで慣用の違いということになる。

 従って「太平洋」には「太」。「大西洋」には「大」とする違いも、単に慣用上の区別でしかない。

「太」字の謎、それは「ふとい」の訓である。それならば「ふとい」は何処から生じたのだろうか?

字源では、この意味は生じない。恐らく日本語(国語)の用法だろう。

『字訓』には、ふとし[太・泰]は、すぐれたもの・神聖なものの誉め言葉という。

此処でも「ふとい」はない。あくまでも私案だが、「ふと(い・し)」と「ひと()」の関係。

「ひとしい(等・斉・均)」が「増える」事。「ひとつ」が「ふえる」。それが「ふえる」と展開したと考えている。

「臭(シュウ・におい・くさい)」。

この字は、戦前迄の字形と現在異なっている。現在では、下部は「大」。

では上部は何か?

現在では、自分の「自」、或いは「~より」等と使う。

しかし、本来は「鼻」の象形文字だ。のち「自」が、本義の「鼻」から他の意味に用いられた為、本来の「鼻」の意味には、「自」に声符「匕(下部の形)」を加え、現在の「鼻」字が作られた。

鼻が大きいからといって、人一倍臭う訳ではない。

 前回の漢字クイズの絵には「犬」が臭いを嗅いでいるものがあった。

そう、学校でも「犬」の嗅覚は特に優れていると教わるのではないだろうか。

「臭」旧字体では「臭」。何処が違うか分かるだろうか?

そう、「臭」は本来「自()」と「犬」の会意文字で「におう・におい」。

会意文字は、Aの意味とBの意味を組み合わせ、新たにCの意味を作るものだから、単純に「犬が臭う」という意味ではない。

 「自()」は人間の鼻だ。それに「犬」を加え、「犬」とは関わりなく「におう・におい」となる。

 白川先生は、戦後の漢字改革の問題点の一つとして、このような本来「犬」の意味である字を、意味なく一点省いて「大」の形としてしまった事を挙げている。・・・嗅ぐは「犬」のまま

前回戦後の漢字政策で「臭」が「臭」に改変。しかし関連字「嗅」は「犬」のまま。

常用漢字は改変したが、それ以外は従来の字体そのままという、何とも奇妙なダブルスタンダードが現在も日本の漢字政策で続いている現状がある。

その「嗅」が、2011年一般化された新常用漢字に入った。

 さて学校では何も問題はないのか?

「臭」と「嗅」は関連のないものと教えるのだろうか?

早稲田大学のS教授は、「嗅」を「大」にして教えても良いとして、出版社も右に倣えとしている。

では逆に「臭」を本来の「犬」にしたらどうするのか?

発言を聞いた事がない。

 常用漢字で「犬」が「大」と改変されたものは、他に「器・類・戻・突」がある。

 今回の「顔を中心に」とは関わりないものだが、参考までに

「目」は縦に付いているだろうか?それとも横?

「目」の形、考えて見れば不思議だ。何故「目」は縦向きなのか?

 『漢字クイズ』を振り返って見よう。甲骨文字では「目」は横向きだ。それも両目ではなく、一つ。それが目である事を端的に表した。

両目の形もある。しかし、それはキヨロキヨロと落ち着きなく辺りを見回す意味だ。

漢字の特徴として、絵画の様に具象的に描写するのではなく、端的にそれが何であるか分かれば良く、いわば抽象化されて描写されている。

従って、「見る」事でも、目が一つで表現される。

横向きについている「目」が何故縦に描写されたのか?謎とは思われないだろうか? 

甲骨文字で横向きに表された「目」が何故縦になったのか?

この問いかけを以前漢字講座「親子学習会」開催の際にした事があった。

一人の小学生、当時二~三年生だっただろうか、講座終了後、お母さんと歩みより、その答えを求めてきた。

不思議だなと思ったのだ。

此れが素晴らしい。

 この難問は、白川先生も説明していない。

納得できる答えを、私は聞いた事がない。子どもにも納得できる答えは大切だ。

私は、その子どもさんに「これから貴方が漢字の勉強をして答えを見つけて下さい。恐らく誰もまだ答えを見つけていません。このような不思議だなと思う事を大切にして下さい。」と言う。

漢字を通しまだまだ遊ぶ事ができる喜びを、また子ども達に教わった。「見」等横向きから現在縦向きになった文字の説明は省く。

 一方横向きの「目」の形も幾つか残っている。「夢・徳・漫」等だ。特に「徳」旧字体は「德」の旁は、もと「悳」だ。つまり単に書法上の問題とも言い切れない。

但し、「羅」等は「网」で網の形より、横向きの目の形が全て「目」ではない。

現在の字形ではなく、古代文字を基本に本来の字形で考えなければならない。それが現在の学校の限界という意味なのである。

 「目」は外界と接する第一の器官で有り、「見る」という行為を中心に意味が形成されている。

しかし、この「見る」は単に「みる」というだけでなく、「みる」は呪的行為で有り、精神的・内面的な交渉をも意味する。

また「みる」とは、隠れたる神の姿を見ることで有り、神霊と交通する直接的手段を表した。

日本の『万葉集』初期に見られる「見る」「見れど飽かぬ」の語句には、対象たるもの、神霊或いはその土地の地霊に対して誉め言葉的意味を持つ呪的行為だったと考えられる。

さらに「みる」事により、対象の魂を呼び込む事によって新しい生命力を、自らに身に付けるという観念に基づくものだったと白川先生は述べている。

『万葉集』初期では、従来言われている叙景歌という景色を歌うものではなく、呪歌である事を白川先生が彰かにした。

 小学校の校歌がよく土地の歌詞があるのも、本来土地誉めの意味があったのでしょう。

「眉」は、何の為にあるのだろうか?普段において何も必要性を感じないが、本来は汗が直接目に入るのを防ぐ意味だったのだろうか?

当然男女の区別なく「眉」はあるが、古代では主に女に関する字だったようだ。「眉」に女を加えた「媚」という字が有った。 

恐らくビコと呼ばれる巫女(シャーマン)の眉飾りを表したのだろう。

 甲骨文には、目の上にカタカナの「へ」や「フ」に似たものが並んでいる形であった。その後字形は変化して、現在の「眉」となった。

 この字形の変遷を理解しないと、なかなか古代と現在の字が結びつかない。

一方で「眉」そのものは、古代中国並びに日本でも様々な加工の運命を辿っている。

『字訓』(白川静著)には、「まよ」が「まゆ」の古形とされ、また「繭(まゆ)」も同じとされている。

なるほど「まゆげ」の形が、蚕・繭にも見えてくる。

また日本でも、一休さんのアニメは人気だった。その中で、貴族等身分高い人は皆、男女の区分なく「眉」を剃り、さらに上部に描くという不思議な化粧をしていた事を記憶されていないだろうか?

そう、「眉」は化粧や飾りを施す事で、ある呪的な意味を持つと考えられたのだろう。

もう一つ日本では、古くから眉が痒いのは、想う人に会う前兆とされた。

「眉」は面白い。「読める・読めない」だけでは勿体ない。その面白さを子ども達に伝えて行かなければならない。

(ジ・みみ)」まず何故「みみ」と「み」を重ねる読みなのだろうか?

そんなもん、そう覚えれば良いではないかと叱られそうだ。

その通り。しかし目は「め」。「めめ」は幼児に対して言う。

この事は手も同様「てて」と言う。

耳も「み」が古形だった。恐らく耳にだけ幼児に対して言う名残が存在したと考える。

決して左右一対だから「みみ」ではない。

また食パン等、パンの「みみ」という言い方がある。この場合の「みみ」は何か?

それは、耳はへり()につくものであることより、ものの縁辺の意味から生じた。

「耳」にも聴覚の器官以外の意味もあった 古代文字の「耳」は、実際の耳の形状 とよく似ている。しかし現在の「耳」字はどうか?

確かに学校で、この字を「耳(みみ)」だと教わったから、何の疑いもなく、そう理解している。

冷静に今の字形を見よう。「耳」字六画中、斜めの右上がりに書かれた五画目は、何故長く縦画より右に出て、さらに最終画の縦画は、何故下につき出たのだろうか?

実際の「耳」の形状からは、全く不自然である。実は現在の字形の多くは篆書体という、甲骨文からは千年後、形義が不明となったものから作られたものも多く、恐らく収筆の誇張が関係したのだろう。

なんとも不思議な字形だ。

学校では五画目が、縦画より右に出ないと×となってしまうが、それは全く意味のない事なのである。

「耳」のつく字に「茸(きのこ・たけ)」がある。不思議だね~、何故「耳」がつくのだろうか?

漢字ではジヨウ声「しげる」意味で有り、「きのこ・たけ」は日本での国語的用法だった。

どうして、その漢字を充てたのか?

恐らく耳たぶを連想したのではないだろうか。

古くからではなく、新しく作られた形声文字や国語的用法は、字形として初源・本質的な意味はなく、枝葉的なものとして考えて良いと思う。

あくまでも雑学程度のもの、主たる学習として扱う必要性は低い。それを殊更声高に言う学者もいるが・・・

では「耳」における本質的な意味とは何か

「耳」における本質的な意味は、大きく二つある。

1 器官としての耳

2 戦争での手柄(かく耳)としての耳

古代においては「みる」という具体的・現実的な行為よりも、「きく」という抽象的な世界を、より次元の高いものとしたと考えられる。

馨香のような、いっそう抽象的なものを、最も次元の高いものとした。

姿なき神は「みる」事はできない。同じように声なき神の声も聞く事はできなかった筈である。


# by souu-y | 2023-01-25 17:47 | 雑記